
大相撲であった珍事 - 大相撲大好き❤️
2025/12/15 (Mon) 17:54:52
大相撲であった珍事を送ってください
Re: 大相撲であった珍事 - 西の関
2026/03/06 (Fri) 18:19:59
幕内力士と十枚目力士が顔を合わせて十枚目力士が勝つというのはよく見られる光景ですが、最終的に両者が優勝してしまった結果、十枚目優勝力士が幕内優勝力士に本割で勝つという、空前の珍事に発展したことがありましたね。
もちろん、ここに来る人はいつの場所のことかすぐにわかるでしょう。
Re: 大相撲であった珍事 - 西の関
2026/05/10 (Sun) 17:33:12
優勝決定戦制度が導入されたのは昭和22年夏場所ですが、実は戦前に一度だけ優勝決定戦が行なわれたことがありました。
それは昭和8年春場所のこと。
この場所十両では番神山と綾昇が共に10勝1敗で並び、本来ならば番付上位者が優勝するところ、二人とも春秋園事件の脱退復帰者による別席扱いで、上下関係が存在しなかったため、前代未聞の優勝決定戦になり、綾昇が上手捻りで勝って優勝しました。
優勝決定戦という発想すらなかった時代の優勝決定戦というのも、ある意味珍事と言えるでしょう。
大坂相撲について(京都相撲等についても少し) - ビスタカー
2026/04/04 (Sat) 02:06:12
先日、この星取の英語版のサイトについて投稿しました。これは日本人はあまり見ないだろうと思いますし、英語圏の人もどれだけ利用しているか定かではないところです。
今度はこれまたあまり閲覧されないであろう所ですが、大坂相撲等について投稿してみます。
1.大坂相撲:「日本相撲史」との比較等
大坂相撲の勝敗記録は、江戸勧進相撲→東京相撲→現代の大相撲に比べるとかなり不完全で、幕内ですら、明治前期だと一部分不明だったり、明治12年(1879年)9月場所や、明治19年(1886年)10月場所などのように、勝敗記録の現存が確認されていない(少なくとも「日本相撲史」には載っていない)場所もあったりします。
「日本相撲史」は国立国会図書館デジタルコレクションでログインして見ているのですが、このサイトで「?」となっている箇所や、対戦相手不明となっている箇所を中心に見比べ、相違点や矛盾点、表記がおかしな箇所を検討してみました。日本相撲史に基づく表記では、この掲示板では旧式を現行式に改めています。
1871-06 西前頭6 懸車 3日目:現状のこのサイト・日本相撲史共に「●時浪」
対戦相手となっている時浪は休場力士として日本相撲史に掲載されています。
1876-06 西関脇 大錦 3日目:現状のこのサイト「や ? 」、日本相撲史「や」
他の力士の3日目を見渡しても、対戦相手が「大錦」となっている箇所は見当たりませんし、誰かとの対戦が組まれていて休場となったがその対戦相手が不明な場合も、江戸・東京相撲のこのサイトの星取表でも「や ? 」表記ではなく、単に「や」表記としているようですので、ここも単に「や」表記でいいのではないでしょうか。
1876-06 東前頭4 小松山 4日目~6日目:現状のこのサイト「や中津山」「○一本松」「●」、日本相撲史「や」「○中津山」「●一本松」
対戦相手の表記が1つずれています。ちなみに中津山も一本松もこのサイトの範囲外の番付位置のようです。
1885-10 東前頭3 虎林 初日:現状のこのサイト「? ? 」、日本相撲史「○西の海」
「日本相撲史」では対戦相手「西の海」が「猫又」のところに重複しており、「○猫又-西の海●」の取組となるところからして、このサイトでは虎林の初日を不明としているのですが、「? ? 」表記ではなく、単に「?」表記でいいのではないでしょうか。
1885-10 西前頭8 西の海 2日目:現状のこのサイト「●」(対戦相手不明)、日本相撲史「●虎林」
「日本相撲史」では対戦相手「虎林」が「東関」のところに重複しており、「○虎林-東関●」の取組となるところからして、このサイトでは西の海の2日目を対戦相手不明として単に「●」としています。
2.大坂相撲:幕内下位・十両・それ以下の星取・勝敗記録について
このサイトでは、明治35年(1902年)6月場所以降の大坂相撲について十両の星取表も掲載されているのですが、大坂相撲の幕内下位や十両の星取表は「日本相撲史」にも載っていませんので、どのような資料を参照したのでしょうか?
このサイトでは明治35年(1902年)6月場所以降の十両星取表は、多くの場所で完全な形となっているのですが、次の場所に不明箇所があります。
1914-05 勝敗数・星の並びは埋まっていますが、対戦相手はかなりの部分が不明です。また現状のこのサイトでは、西十両3枚目の朝山は、星の並びだけを示すと「●○○×●○○ △○」と8日目が半角スペースとなっています。
1921-06 勝敗数・星の並びは埋まっていますが、対戦相手はごく一部が不明です。
1925-06 勝敗はごく一部が不明です。
1926-01 勝敗はかなりの部分が不明です。
また、この時代の大坂相撲では、(東京相撲でも明治前期の序ノ口とかの勝敗記録が現存していないように)四段目とか見習とかは勝敗記録が現存していない可能性があるにしても、後の横綱宮城山の幕下在位時の勝敗数の記録が残っていることからして、幕下ぐらいは当時の資料を掘り起こせばまとまった形で勝敗記録が現存していそうにも思えるのですが、この辺りの事情はどうなのでしょうか。参考までに、宮城山の大坂相撲の幕下在位時の勝敗数の記録を以下に示します(Wikipediaより)。
1913-05 幕下付出 7勝3敗
1914-01 東幕下22 5勝2敗1分2休
1914-05 西幕下7 9勝1預
3.大坂相撲:小島貞二コレクションの番付実物画像、番付面の構成について
小島貞二コレクションの番付実物画像は、江戸勧進相撲→東京相撲→現代の大相撲では、宝暦7年(1757年)10月場所から平成18年(2006年)9月場所までごく一部を除き揃っているのですが、対して大坂相撲では、まとまった形で見られるのは「大阪大角力番付集」の明治12年(1879年)9月場所から大正2年(1913年)5月場所までで、江戸時代とか明治でも11年(1878年)以前とか、大正3年(1914年)以降が見れません。ちなみに相撲館けはや座ではそれ以降の大正時代の大坂相撲の番付表もいくつか見ています。
また「大阪大角力番付集」で見れる範囲で番付面の構成を見ると、まず大坂相撲の縦一枚形式の番付表は、江戸勧進相撲→東京相撲→現代の大相撲なら「蒙御免」に当たる場所は大半の場所で「大相撲」(明治31年(1898年)4月場所まではその上に「官許」の文字あり、明治43年(1910年)5月場所~大正2年(1913年)1月場所は「大角力」、大正2年(1913年)5月場所は江戸勧進相撲→東京相撲→現代の大相撲と同じ「蒙御免」)となっています。二段目は明治24年(1891年)9月場所まで全体が「同」を連ねた形の地位表示なのですが、明治25年(1892年)9月場所から明治31年(1898年)4月場所までは地位表示が全体に四股名より大きめの「前頭」の文字を連ねた形、明治32年(1899年)6月場所からは地位表示で十両が「前頭」、幕下が「同」と分かれるのですが、それも初めの頃は十両の「前頭」の文字が四股名より大きめで、十両が現代の相撲協会の相撲番付と同様に四股名と同じ大きさで1人ずつ「前頭」と冠されるようになったのは明治39年(1906年)5月場所からです。また下の方の段について見れば、三段目は明治25年(1892年)9月場所から明治38年(1905年)1月場所まで略されていない「同」の字の地位表示でしたし、初めの頃四段目や五段目が「見習」(場所によっては「見習」は五段目のみ、あるいは五段目の途中からのこともある)だったのが、明治36年(1903年)5月場所から「見習」の表示がなくなっており、明治38年(1905年)6月場所からは現代の大相撲の番付と同様の五段編成(それまでは六段編成で五段目全体まで力士、六段目は頭取・世話人・勝負検査役等)で、五段目の力士が少なくとも番付面の見た目上序ノ口相当(その左側に頭取・世話人・勝負検査役等)となるのですが、五段目の力士が場所によっては東方のみだったり、不在だったり、あるいは東西両方にいても極端に人数が少なかったり(例えば明治41年(1908年)6月場所の場合は東が6枚、西は僅か2枚)します。
また江戸勧進相撲→東京相撲では、昭和9年(1934年)1月場所まで、力士の地名の場所が、幕内や十両はきちんと書かれるのに対し、幕下は大部分ないし全部が「江戸 〃 〃 〃 」、「東京 〃 〃 〃 」のような表示、三段目以下は江戸時代は「江戸 〃 〃 〃」(例外力士を挟む場合あり)、明治以降は慣習的・装飾的?に「東京 〃 〃 〃」のような表示となっており、昭和9年(1934年)5月場所以降幕下以下も出身地がきちんと書かれるようになりました。巡業時の板番付では昭和戦後以降でも幕下以下の出身地表示が「東京 〃 〃 〃」のようになっていることがあります。そしてそれに対応するように、大坂相撲の明治後期以降の縦一枚番付では幕下が「大坂 〃 〃 〃 」(例外力士を挟む場合あり)、三段目以下が「大坂 〃 〃 〃」となっていました。
4.大坂相撲:東西合併時の加入状況について
大坂相撲の組織は、本場所としては大正15年(1926年)1月の台湾興行を最後に、東京相撲に吸収合併される形で消滅したのですが、その際、東西連盟大相撲として東京相撲との合併興行で実力審査が行われており(この興行での星取表はこのサイトでは画面上のクリックでは「年月検索」からでしかアクセスできない)、これを元に大坂相撲から合併後の東京相撲に加入した力士は合併後の昭和2年(1927年)1月場所の番付に編入されたのですが、大坂相撲に所属していた力士は全体的に東京相撲の力士より実力がかなり劣ると判定されたようで、大坂相撲の力士がどの地位だったのがどの地位に編入されたのかざっと調べてみました。ちなみに大正15年(1926年)10月の東西連盟大相撲では専用の特殊な番付も作られ、力士の出身地表示は幕内・十両・幕下まできちんと書かれ、三段目以下は東方が「東ノ方 〃 〃 〃」、西方が「西ノ方 〃 〃 〃」でした。
以下、基本的に大坂相撲大正15年(1926年)1月場所で幕内・十両だった力士を示し、番付地位は、大坂相撲大正15年(1926年)1月場所→合併後昭和2年(1927年)1月場所で示してあります。大坂相撲大正15年(1926年)1月の十両はこのサイトでは黄色になっていませんので、下の廃業力士リストにない力士のうち、昭和2年(1927年)1月場所の番付で見つかったものを示してあります。一旦廃業して後に復帰した大島や、大坂相撲大正15年(1926年)1月で幕下で合併後昭和2年(1927年)1月で十両だった源氏山→源武山、そして大坂相撲大正15年(1926年)1月で幕下だった東潟(後の関脇磐石)もリストに加えました。また合併後昭和2年(1927年)1月場所の※印は幕下16枚目以下でこのサイトの範囲外のため、小島貞二コレクション番付実物画像にて確認してあります。
宮城山 東横綱→東張出横綱
荒熊 東大関→東前頭9
錦城山 西大関→東前頭10
若木戸 西張出大関→東幕下3
千年川 東小結→東十両5(鹿島崎と改名)
時潮 西小結→西幕下2(合併後の番付表では「時汐」と表記揺れ)
真鶴 東前頭1→西前頭1
桂川 西前頭2→西前頭6
若錦 西前頭2→西幕下20※
朝潮 東前頭3→西前頭13(朝光と改名)
敷島 東前頭4→西幕下27※
日本嶽 西前頭5→東幕下18※
二瀬川 東前頭9→東幕下36※
春日森 西前頭9→西三段目2※
瀬戸山 東前頭11→東十両12
片ノ濱 東十両1→西十両9
大島 東十両2→一旦廃業(昭和3年(1928年)1月に十両格番付外で復帰)
駒ヶ嶽 東十両5→東十両9(番付上は駒ヶ嶽のままだが、駒錦に改名して出場)
千舟潟 東十両6→東幕下38※
押田川 東十両9→西幕下37※
時ヶ嶽 西十両9→西三段目33※
吉ノ川 東十両12→西幕下16※
源氏山 西幕下6(このサイトの範囲外のため「日本相撲史」の番付画像(不鮮明ながら判読できた)にて確認)→西十両11(源武山と改名)
東潟 西幕下23(〃)→東三段目11※
宮城山は実力的には小結程度と判定されましたが、公認横綱だったためにそのまま張出横綱となり、その後一応優勝も2回しているのですが、歴代横綱中、横綱としての皆勤負け越しを複数回(3回)経験するという不名誉な記録を残す始末でした。大坂相撲に所属していた力士の中で特筆すべきケースとして、東京相撲の力士と互角に勝負できた真鶴は後に小結に昇進したこともあります。この他平幕である程度頑張ったケースとしては、大坂相撲で大関だった荒熊・錦城山と、桂川・朝潮→朝光がいます。
十両に組み込まれた力士では、駒ヶ嶽(後に駒錦)と瀬戸山が十両である程度頑張り、駒錦は幕下に陥落した場所もありながら入幕もしています。源武山は昭和2年(1927年)3月場所に十両優勝を記録しましたが、昭和3年(1927年)5月場所に幕下に陥落してからは十両に復帰できず、三段目に陥落したこともありましたが、昭和7年(1932年)まで現役を続けました。一方片ノ濱は出場せずすぐに廃業、千年川→鹿島崎も東西合併直後に負け込んでその後出場せずすぐに廃業しています。
大坂相撲の元大関若木戸は一気に幕下に番付を落とし、出場しないまますぐに廃業、小結から幕下に落とされた時潮→時汐も東西合併直後に6連敗ですぐ廃業しています。この他大坂相撲で関取を務めていた、若錦・敷島・日本嶽・二瀬川・春日森・千舟潟・押田川・時ヶ嶽・吉ノ川といった辺りは、東西合併直後の番付に載ったはいいですが、このサイトの範囲外の番付位置に落とされ、いずれも次の昭和2年(1927年)5月場所の番付表には見当たりません。おそらくすぐに廃業したのでしょう。そして、東潟は東西合併後、磐石と名を改めて関脇まで昇進しています。
5.京都相撲等について
大坂相撲と比べても勝敗記録がまともに残っていない(「銀河大角力協会」の優勝力士一覧も半分以上が不明)京都相撲についても、「日本相撲史」で、明治4年(1871年)8月場所、明治7年(1874年)9月場所、明治8年(1875年)10月場所の星取表を見つけております。
また相撲デジタル研究所の相撲番付総合データベースでは、京都相撲消滅直前の明治43年(1910年)5月場所の番付表が登録されており、その番付は四段構成で「蒙御免」に相当する場所は「京都大相撲」、東大関が放駒長吉、西大関が虎林直治郎、國岩宇八(後に京都相撲最後の大関となり、大正3年(1914年)5月場所に國ヶ岩夘八として東京相撲に幕尻格番付外で組み込まれた後、十両・幕下に陥落)は東小結、力士は三段目までで記載力士の総数は僅か72人で三段目の出身地表示は「京 〃 〃 〃」、四段目が検査役・頭取・世話人でした。
平成期の雅山以降、元大関の十両・幕下(二段目)といったケースが増えてきていますが(直近では令和7年(2025年)5月場所の御嶽海の十両陥落、令和7年(2025年)11月場所までの朝乃山の十両以下在位)、昭和戦後の大受から更に遡れば、江戸時代の看板大関まで遡ることになりますが、これは江戸相撲→東京相撲→現代の大相撲という流れだけで見た話です。大坂相撲・京都相撲まで考えれば、前述の大坂相撲から来た若木戸や、前述の京都相撲から来た國岩→國ヶ岩といったケースもあります。
以前投稿した「究極の大相撲データベース」構想の想像でも大坂相撲・京都相撲について触れましたが、「究極の大相撲データベース」の場所IDとしては例えば次のような構成が考えられますね。
先頭桁:相撲の組織
1:江戸勧進相撲→東京相撲→現代の大相撲
2:大坂相撲
3:京都相撲
4:東西連盟大相撲
2~5桁目:年
6・7桁目:月
例;
江戸相撲宝暦7年10月場所→「1175710」
現代大相撲令和8年3月場所→「1202603」
大坂相撲大正15年1月場所→「2192601」
京都相撲明治4年8月場所→「3187108」
6.大坂相撲に関するその他おまけ的な情報
最後に大坂相撲に関するおまけ的な情報です。
大坂相撲では、明治38年(1905年)1月場所に2度の入れ掛けによる1日3番取りの例があります。以前投稿した「究極の大相撲データベース」構想の投稿での形式ですと、例えば次のようになります。
大坂相撲明治38年1月場所 [2190501] 東十両9枚目 一ツ引 ○[○○○]●[○○]○[○●]●○や● 9勝4敗
またこの場所は、十両が東藤を除いて全員が1日複数番取りを含んでいるという珍しい形となっていますが、東藤も2日目は[●や]で休場絡みながら2番相当の記録がある状態です。
大坂相撲の下位の珍名力士を「大阪大角力番付集」の番付画像で見てみたら、次のようになっていました。
一二三山 四五六:明治27年(1894年)4月場所 東見習37枚目(この場所の見習の表記は五段目の途中から)
ヒーロー 市枩:明治35年(1902年)6月場所 西五段目(見習)23枚目
三ツ△ 寉吉:明治34年(1901年)5月場所 西五段目(見習)12枚目
三ツ△ 寉蔵:明治35年(1902年)6月場所 西五段目(見習)16枚目
三ツ△ 光蔵:明治36年(1903年)1月場所 西五段目(見習)12枚目
自働車 早太郎:明治42年(1909年)1月場所 西四段目15枚目
自轉車 早吉:明治42年(1909年)1月場所 西四段目19枚目
一二三山 四五六:明治42年(1909年)5月場所 東四段目4枚目(上記の「一二三山 四五六」とはおそらく別人)
一二三山 喜之介:明治43年(1910年)1月場所 西四段目8枚目
〃:明治43年(1910年)5月場所 西四段目6枚目
〃:明治44年(1911年)2月場所 東三段目25枚目
〃:明治44年(1911年)9月場所 東三段目29枚目
Re: 大坂相撲について(京都相撲等についても少し) - ビスタカー
2026/04/05 (Sun) 18:56:35
ちょっと訂正です。明治35年(1902年)6月場所の西五段目(見習)16枚目は、「三ツ△ 寉蔵」ではなく、上の名前は普通表記の「三ツ鱗 寉蔵」でした。
Re: 大坂相撲について(京都相撲等についても少し) - ビスタカー
2026/04/06 (Mon) 01:24:18
それと、大坂相撲で関取を務めたが東西合併時にこのサイトの範囲外の番付位置に落とされた力士のうち、若錦と敷島は東西合併直後の番付限りで廃業したのではなく、若錦は昭和2年(1927年)5月場所の西三段目9枚目と昭和2年(1927年)10月場所の西幕下32枚目、敷島は昭和2年(1927年)5月場所の西三段目筆頭に載っていることが分かりました。それでも割とすぐに番付から消えてしまっていることは変わりませんが。
Re: - gans@作成者
2026/05/08 (Fri) 22:13:20
大阪相撲のデータは、酒井公の日本相撲史及び当時の関西圏の新聞紙面の情報が頼りです。
確実でない部分もあるため、いくらか矛盾もあると思いますが、どれが正しいと断定する材料も乏しいため個別の修正はしておりません。
英語のサイトを見てみましたが - ビスタカー
2026/03/30 (Mon) 01:49:30
この星取の英語(ENGLISH)のサイトを見てみました。英語版では江戸時代から現代まで幕内しか載っていませんが、ざっと見たところ、2009年1月場所の安馬→日馬富士:Harumafuji(Ama)を最後に、ここ10年以上の以下に示す幕内での改名(RENAME)(入幕と同時の改名を含む)の情報が抜けています。
2011-11:松谷→松鳳山:Shouhouzan(Matsutani)
2017-05:小柳→豊山:Yutakayama(Oyanagi)
2023-07:霧馬山→霧島:Kirishima(Kiribayama)
2023-07:落合→伯桜鵬:Hakuouhou(Ochiai)
2024-05:琴ノ若→琴櫻:Kotozakura(Kotonowaka)
2025-11:草野→義ノ富士:Yoshinofuji(Kusano)
2026-01:伯桜鵬→伯乃富士:Hakunofuji(Hakuouhou)
また、それ以前の事例ですが、入幕と同時に改名した例として、以下も英語版で抜けています。稀勢の里の例の他、大正時代の事例も見つけています。
1921-05:陸錦→小野川:Onogawa(Kuganishiki)
2004-11:萩原→稀勢の里:Kisenosato(Hagiwara)
それと参考までに。
(2006-11:琴欧州→琴欧洲:この類は音が変わらないため英語版では記述不要)
Re: 英語のサイトを見てみましたが - ビスタカー
2026/03/30 (Mon) 01:57:28
これ忘れてました。
2025-07:若碇→藤ノ川:Fujinokawa(Wakaikari)
Re: - gans@作成者
2026/05/08 (Fri) 22:10:21
English版の方は十両の星取を掲載していませんので、
入幕時の改名は載せていません。
1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - ビスタカー
2026/02/18 (Wed) 01:49:52
現行制度の大相撲においては、不戦敗(対戦相手の不戦勝)となる状況は、ある力士が場所途中から休場した場合と、ある力士が場所途中に引退した場合の2パターンが基本です。しかし実際には、通常の休場・引退以外の特殊なパターンとして、立ち合い前(特に本来取り直しの相撲を取るべきケース)に痛みや脳震盪等で相撲が取れない状態と審判委員が認めたことよって不戦敗となるケースや、取組に遅刻したことによって不戦敗となるケース、不祥事による出場停止処分によって不戦敗となるケース、更に両者の休場(引退)による両者不戦敗の実例なども稀ながら存在します。特殊な状況での不戦敗の実例としてその他に次のようなものもあります。
1926-01 10日目 □東前頭8大蛇山-西前頭6白岩■ :白岩は極度の疲労のため棄権。不戦勝・不戦敗の幕内適用第1号。
1939-01 11日目 ■西前頭1磐石-西大関鏡岩■ :水入り二番後取り直しの大相撲。棄権の申し出をした鏡岩に対して、磐石も不戦勝を承諾せず、両者棄権となって不戦敗。
ここで本題ですが、更に特殊な状況での不戦敗として、不謹慎な話になってしまいますが、重大な不祥事を起こした力士が即日の解雇もしくは除名処分となって不戦敗となるケースや、力士の死亡によって不戦敗となるケースも理論上はあり得ます。現在まで前者の実例は皆無のようですが、相撲のことを調べていくうちに後者の実例ではないかと思った事例の情報に出くわしました。
この星取表サイトの範囲外の力士となりますが、1963年(昭和38年)11月場所中の2日目(11日)に発生した佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件では、中毒した6人が救急搬送され、3日目(12日)に西三段目66佐渡ノ花が、5日目(14日)に西序二段73斉藤山が死亡しています。相撲レファレンスではこの時代の幕下16枚目以下は星取表の星の並びが登録されておらず、勝敗数のみの登録となっていますが、当時幕下以下は既に現在と同じ7番制となっており、佐渡ノ花は1勝1敗5休、斉藤山は0勝2敗5休となっています。そこで佐渡ノ花は1番相撲を勝った後、2番相撲は大相撲における不戦勝・不戦敗の創設以降で史上唯一の「死亡による不戦敗」なのでしょうか?(2番相撲がもし4日目なら確実にそう言えますが、3日目なら時間レベルの話になってきます。斉藤山の方は1番相撲を負けた後、2番相撲は死亡日からして通常の「休場による不戦敗」です。)
ちなみにそのフグ中毒事件で、中毒して救急搬送されたものの生還した4人についても調べたところ、相撲レファレンスでは次の通りでした。
西三段目18 太田 1勝1敗5休
東序二段2 橋田 全休
東序二段105 崎村 1勝1敗5休
前相撲 田中山? (Wikipediaでは「田中」となっていますが恐らく田中山ではないかと)
また相撲レファレンスでは、件の佐渡ノ花を含む翌1964年1月場所の数人の改名情報が誤って登録されています。
(相撲レファレンス登録情報:誤り)
佐渡ノ花→利根ヶ嶺
龍山→二瀬若
(小島貞二コレクション番付実物画像による)
佐渡ノ花(死亡)
龍山→利根ヶ嶺
御所錦?→二瀬若(番付画像上、文字が小さすぎて旧四股名は十分に判読できませんが、「御所錦」のようにも見えます。相撲レファレンス登録情報では御所錦は1963-11限りで引退扱い)
最後に、「死亡による不戦敗」に近似する事例としては、次のような例を知っています。
1894-01 4日目 や東前頭13響矢-西十両4音羽山や :不戦勝・不戦敗の創設以前の事例。3日目に音羽山(0勝2敗)が死亡。4日目に取組が組まれていた音羽山は星取表上「や」(休場)扱いとなり、対戦相手の響矢も星取表に「や」と記録された。
1992-07 10日目 西序ノ口21魁士 :魁士(2勝3敗)は10日目に死亡したが、この日は魁士の取組は組まれていなかった。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - 紅葉橋律乃介 URL
2026/02/18 (Wed) 23:37:01
昭和38年11月場所の星取表を確認しました。
西三66の佐渡ノ花、西二73の斎藤山、ともに二番相撲は4日目で●となっています。
佐渡ノ花が3日目に亡くなったとすれば、4日目はまさに死亡による不戦敗となりますね。
西三18太田(1-1、5休)、東二2橋田(0-2、5休)、東二105崎村(1-1、5休)3名とも2番相撲は4日目が●(おそらく不戦敗)でした。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - 西の関
2026/03/03 (Tue) 17:51:04
御所錦→二瀬若の改名問題について調べてみました。
こちらでは画像が1枚しかアップロードできないので、返信が2度に渡ることをご了承ください。
まずは昭和38年11月場所の御所錦の星取(雑誌「相撲」より)。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - 西の関
2026/03/03 (Tue) 17:58:37
続いて昭和39年1月場所の二瀬若の星取(同じく雑誌「相撲」より)。
「御所錦改」と明記されている上に、出身地、本名、生年月日等の情報も全て一致します。ビスタカーさんのご指摘通り、御所錦が二瀬若と改名したことで間違いないと思われます。
なので「相撲レファレンス」の二瀬若のページは大間違いということになります。
せっかくの詳しいサイトなのに残念ですね。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - ビスタカー
2026/03/04 (Wed) 01:21:59
というわけで、ついでに(おまけ的な情報ですが)、1968-11のフグ中毒者6名のうち番付外の田中(生還)を除く5名について、西三66佐渡ノ花(3日目死亡)の2番相撲4日目●のフグ中毒での「死亡による不戦敗」や、西二73斎藤山(5日目死亡)・西三18太田・東二2橋田・東二105崎村(以上3名生還)の2番相撲4日目●の「中毒による不戦敗」では、対戦相手(不戦勝になった側)はどんな四股名が記録されていたのでしょうか?
当方では昭和時代やそれ以前の幕下以下の対戦相手まで記録されている雑誌等の星取表は所持していないもので…
で、これまたおまけ的ですが、「即日の解雇・除名処分による不戦敗」は過去に例がないようですが、参考までにその近似事例にも遭遇しましたので載せておきます。
2006-09 10日目 ■東幕下42琴冠佑-西幕下46華王錦□:形式上は解雇や除名ではなく、通常の引退だが、琴冠佑は1番相撲からの3連勝から中日の4番相撲で勢に敗れた際、取組後の支度部屋で勢をタオルを巻いた拳で殴るという不祥事を起こしてしまい、師匠の13代佐渡ヶ嶽から即日の引退勧告を受けて10日目に引退し、その日の5番相撲は不戦敗。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - 西の関
2026/03/04 (Wed) 20:34:51
西三66佐渡ノ花の画像です。一瞬、え? と思いましたが、すぐ隣を見ればわかる通り、相撲誌の記載ミスです。本物(?)はこの場所は東下29でした。
西二73斎藤山の相手は西二72前田嶺
西三18太田の相手は西三15綾桜
東二2橋田の相手は西二6東浪
東二105崎村の相手は東二106辻
今さらながら、前途ある2名の方が亡くなられたのは残念で悲しいことです。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - ビスタカー
2026/03/05 (Thu) 01:15:30
佐渡ノ花の件、結局まとめればこんな感じですね。
死亡により不戦敗となった取組:
1963-11 4日目 □西三段目67福の山-西三段目66佐渡ノ花■:2日目の1番相撲の安川(東三段目67)戦を勝っていた佐渡ノ花は、2日目夜に発生した佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件により3日目朝に死亡してしまい、4日目に組まれていた2番相撲は、大相撲における不戦勝・不戦敗の創設以降でおそらく史上唯一の「死亡による不戦敗」。
1963-11の星取:
(当時の表記)や○や●ややややややややややや 1勝1敗5休
(現代風(協会発行のもの以外)なら)「や○や■」の1勝1敗で死亡により星取の記述打ち切りでしょうか。
というわけで、今回の件はありがとうございました。僕が生まれる前のことながら、佐渡ノ花と斎藤山がフグ中毒で亡くなったのはやはり悲しいことですね。
Re: 1963-11西三段目66佐渡ノ花の2番相撲は死亡による不戦敗か? - ビスタカー
2026/04/06 (Mon) 01:26:05
佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件による佐渡ノ花・斎藤山の死亡の件と、佐渡ノ花を含む数人の改名情報の誤りに関しては、相撲レファレンスの「What's new?」のフォーラムでも3月29日に指摘され、それを受けて相撲レファレンスも更新・訂正されていることが確認できました。ただ中毒者のうち一人の橋田に関しては、正しくは0勝2敗5休と紅葉橋律乃介さんから情報を得ていますが、全休(0勝0敗7休)のまま訂正されていません。
対戦相手としての四股名の省略方法について - ビスタカー
2026/01/26 (Mon) 01:13:23
このサイトの星取表では、4字以上の四股名の力士を対戦相手として表示するときは、3字に省略して表示することになりますが、今場所改名した力士は現状では次のようになっています。
伯乃富士 → 伯乃士
寿之富士 → 寿之士
これについては、4字以上の四股名に「ノ・の・乃・之・ヶ」などが含まれていれば、それを省略したほうが自然と考えられるため、次のようにすべきかと思います。
伯乃富士 → 伯富士
寿之富士 → 寿富士
Re: - gans@作成者
2026/03/01 (Sun) 08:30:54
改名直後で対応漏れになっていましたが、対応しました。
来場所の番付予想をしよう! - 大相撲大好き❤️
2025/12/15 (Mon) 17:49:05
場所が終わるごとに来場所の番付予想をしよう!
例 豊昇龍 横綱 大の里
琴 櫻 大関 安青錦
霧 島 関脇 髙 安
王 鵬 小結 一山本
・
・
・
みたいな感じです
三役だけなどの予想でも大歓迎です
どんどん返信お願いします
不思議な番付編成 - 西の関
2025/11/09 (Sun) 17:23:27
昭和29年秋場所は東小結朝潮から西前頭筆頭出羽錦まで5人連続(朝潮・北ノ洋・羽嶋山・双ツ龍・出羽錦)で6勝9敗でした。
ttps://sumo-hositori.com/S20/S29-9.html
当然、続く30年初場所の番付は、途中他の力士が入り込むにしても、この5人は秋場所と同じ順番に並ぶはずです。ところが実際は、朝潮・北ノ洋・羽嶋山・(大起・)出羽錦・(潮錦・琴ヶ濱・)双ツ龍で、双ツ龍と出羽錦が逆転しています。
ttps://sumo-hositori.com/S30/S30-1.html
東西制でもないのに不思議な現象です。
Re: 不思議な番付編成 - しろしたかれい
2025/11/11 (Tue) 22:13:10
昭和29年秋場所7日目出羽錦は関脇大内山と対戦しましたが、行司庄太郎のミスと時津風検査長の裁定により不利な姿勢から取り直しならぬ組み直しとなり後味の悪い形で敗れました。(Wikipediaの物言いの項に詳しいです)
この勝負は大きな波紋を呼んだようで相撲11月号(秋場所総決算号)にまるまる1ページ使って紹介された他数カ所で記事となりいずれも出羽錦に同情的な論調でした。
これを理由に30年初場所の番付で出羽錦に配慮したという公式な記事は見つかりませんでしたがおそらくそのような理由と思われます。
Re: 不思議な番付編成 - 西の関
2025/11/11 (Tue) 23:13:43
しろしたかれいさん、ありがとうございました。昭和29年の秋場所総決算号には確かに該当記事が見つかりました。大相撲アーカイブ場所でも実際の取組を見てみましたが、確かに「Wikipediaの物言いの項」にあった通りの相撲内容でした。
もしかしたら30年初場所の番付発表後の「相撲」誌でなにか見つかるかもしれませんので探してみます。
私もおそらくそれがこの変則編成の理由と思います。
(添付画像は昭和29年秋場所総決算号の目次。真ん中辺に「大物言いの一番 大内山-出羽錦」とあります)
Re: 不思議な番付編成 - 西の関
2025/11/23 (Sun) 16:24:39
意外な所で見つけました。
雑誌「相撲」昭和55年名古屋場所展望号掲載、渡辺港太郎氏の「記録の手帖」です。155ページに該当する記事があり、昭和29年秋場所7日目の大内山-出羽錦戦に関して、担当行司木村庄太郎が翌日謹慎になったこと、出羽錦の負けがノーカウントとされ6勝8敗扱いで番付が編成されたために双ツ龍と地位が逆転したことが明記されています。
氏は春秋園事件から終戦までの「昭和相撲史」、昭和20年代の「戦後相撲史」を執筆された生き字引のような方なので、これで間違いないと思われます。
後年の研究者が首をひねることのないように、こうした裏事情もどこかに纏められればいいですね。
宝富士 - ニッシー
2025/11/01 (Sat) 21:50:12
宝富士は令和7年秋場所限りで引退しましたが、星取表の成績欄がグレーになっておらず、下の欄にも「引退」と書いてありません。
宝富士が引退を発表したのは秋場所千秋楽の3日後ですが、九州場所の番付編成前に引退届は受理されていて、九州場所の番付には載っていないので、秋場所が最終場所になります。
Re: - gans@作成者
2025/11/15 (Sat) 14:06:01
お知らせいただき、ありがとうございます。
宝富士引退の件、更新いたしました。
当サイトは毎場所1回の更新で、早ければ千秋楽当日、または数日以内の更新をしております。
場所後の諸発表については、翌場所更新時にまとめて行うことになりますのでご承知おき頂けると幸いです。
2025/10/18 (Sat) 01:34:02
東西制(明治42~昭和22年)下では当サイトも得点合計が上部に記載されていますが、必ずしも白星合計ではないようです。
出典がよく分かりませんが、『日本相撲史・中巻』に同じ数字がありました。
例えば、一番最初の明治42年夏では西方合計が白星合計と異なります。
当サイト:59点
白星合計:62点
翌明治43年春は東西ともに異なります。
当サイト:69点/58点
白星合計:68点/59点
なお、当サイトでは旗手を東前11の千年川としていますが、相星で東前9の両國がいます。
番附上位者ということで、両國が優勝旗手ではないでしょうか。
このように、明治・大正は差異が多い印象です。
昭和に入ってからはほとんど差異はありませんが、昭和2年10月は東軍が異なるようです。
『近世日本相撲史』の星取表では「□白岩-宮城山■」となっており、当サイトの星取表と異なります。
当サイト:83点
白星合計:83点(白岩の白星が抜けており、実際には84点)
ちなみに大阪相撲でも東西対抗や旗手がいたようですが、『日本相撲史・中巻』では大正3年以降の本文に東西どちらの勝ちであるか記載されています。
Re: - gans@作成者
2025/10/28 (Tue) 12:28:07
日本相撲史も参考にしております。
また現在、明治〜大正の相撲記事のテキスト化に取り組んでいますが、これらの記事によるといわゆる陰星も点数にカウントされていたようです。星取表では△でも1点になってるものとなってないものがあるという事です。
ただ、この場合は白星の単純合計プラスアルファという形になるはずで、単純合計より少なくなるのは何なのでしょうね。
記事の整理がついた段階で、検証してみたいところです。
43年春は、新聞記事により千年川が旗手を務めたということで間違いないようです。
2025/11/05 (Wed) 22:13:47
丸預り、土俵預りといった陰星については現在の諸資料に伝承されておらず、例えば幕内の全預りが丸預りなのか本当の預りなのか判別がつきません。
千年川が旗手であれば陰星が含まれると思いますが、こちらの星取表以外に旗手を務めた資料が見当たりません。
うちの「銀河大角力協会」でも東西制の得点一覧を設けましたが、当サイトの白星を単純合計して計算しています。
ttp://shiverle.web.fc2.com/vic/sr.html
優勝掲額力士の一覧表は見かけますが、正規の表彰である正確な得点や旗手の一覧が見当たらないのは奇妙ですね。
アーカイブ場所 - 西の関
2025/10/12 (Sun) 17:12:46
星取表とは直接関係ありませんが、相撲協会がYouTubeで展開しているアーカイブ場所は見ごたえがありますね。取りあえず昭和35年以降は全取組、それ以前は(おそらく)場所ごとのダイジェスト。まだ全部揃ってなくて徐々に追加更新されて行くんでしょうが、まあ私が生きているうちに完結することはないでしょう(笑)
因みに、月千円足らずのサブスクです。
Re: - gans@作成者
2025/10/28 (Tue) 12:19:59
ファンクラブ小結コースなので見れていませんが、これは幕内の初っ口から見れるのでしょうか?
そうだとするとかなり膨大な映像資料ですよね。
年間33000円の関脇コース以上入会、またはYouTubeで月額990円のどちらかが必要なんですね。
Re: アーカイブ場所 - 西の関
2025/11/02 (Sun) 17:03:11
昭和35年3月場所は全日程、幕内の初っ口から全取組が見られます。その後は今のところ39年1月場所に飛んでますが、その後の場所もやはり全取組見られます。その途中も順次埋まっていくとは思いますが、完成まで何十年先になるやらという感じですね(笑
35年1月以前は1場所90分程度のダイジェスト版になってます(戦後の場所はほぼ全て揃っています。初期ほど時間が短い)。