星取掲示板

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昭和7年10月場所の幕下 - ビスタカー

2025/03/01 (Sat) 18:11:05

度々すみません。昭和7年5月場所の番付と、同年10月場所の番付は、当時の制度上一致するはずなのですが、10月場所の方のこのサイトの星取表の番付地位で西幕下3枚目に在位しているはずの能登錦が抜けています。

現状のこのサイトの昭和7年10月場所の西幕下の序列では、1小島洋・2可愛嶽・3大筑志・…・14八幡錦・15谷ノ音となっていますが、この序列に3枚目に能登錦を挿入して1小島洋・2可愛嶽・3能登錦・4大筑志・…・15八幡錦(・16谷ノ音)として実物番付と一致するかというと、そういう単純な話ではなく、この時期の星取表には全休力士の省略が多々あり、実物番付の正しい序列は、八幡錦と谷ノ音の間に更に津軽嶽がいますので、すなわち1小島洋・2可愛嶽・3能登錦・4大筑志・…・15八幡錦(・16津軽嶽・17谷ノ音)ということになります。いずれにしてもここで能登錦を挿入すれば、谷ノ音(現状のこのサイトでは○○●●○●●○●○○の6勝5敗として表記されている)はこのサイトから押し出されて消えてしまうことになるのですが。

最近、ヤフオクで「近世日本相撲史」の第1巻と第2巻をゲットしました。参考までに、「近世日本相撲史」による協会発行の星取表の勝敗表示形式と範囲について示します。この時代の東京場所の協会星取表は昭和9年5月場所まで大半の場所で幕下の途中までですが、一部地方場所と2場所合併形式での表示で十両までとなっているものもあり、かと思えば昭和7年5月場所に至っては、春秋園事件による力士数の減少と星取表のマス目の数が多いこととの関係で、幕下どころか三段目のごく一部まで載っていたりします。一方この時代の地方場所の協会星取表は十両までの掲載となっていました。去年協会発行の星取表の範囲外に当たる幕下上位の星取として昭和5年3月場所の東幕下10枚目の開心ついて話題にしていましたが、この時期の協会発行の星取表の範囲外の幕下上位は「けはや座」の資料を参考にしているようですね。

S2.1 勝敗表示:旧式、範囲:幕下途中まで
S2.3 旧式、十両まで
S2.5 旧式、幕下途中まで
S2.10 旧式、十両まで
S3.1 旧式、幕下途中まで(西幕下15枚目若ノ山は協会発行の星取表の範囲外)
S3.3 旧式、十両まで(幕下上位星取表はこのサイトでも一部不明)
S3.5 旧式、幕下途中まで
S3.10 旧式、十両まで
S4.1 旧式、幕下途中まで
S4.3 旧式、十両まで
S4.5 旧式、幕下途中まで
S4.9 旧式、十両まで
S5.1・S5.3(2場所合併形式) 旧式、十両まで(去年の件はこの場所の幕下上位)
S5.5 旧式、幕下途中まで
S5.10 旧式、十両まで
S6.1・S6.3(2場所合併形式) 現行式、十両まで
S6.5・S6.10(2場所合併形式) 旧式、十両まで
S7.1 春秋園事件により中止
S7.2 旧式、幕下途中まで
S7.3 旧式、十両まで
S7.5 旧式、三段目のごく一部まで(三段目力士は、東1立ノ花・東2土佐ノ浦・東3千葉錦・西1一ノ浪が掲載)
S7.10 旧式、十両まで(今回の件はこの場所の幕下上位)
S8.1・S8.5・S9.1 旧式、幕下途中まで
S9.5 - S12.1 表面:旧式、幕下途中まで、裏面:「表面以下力士成績表」として幕下下位以下を現行式の勝敗表示で対戦相手なしの簡略形式で掲載
S12.5 - S20.6 表面:旧式、十両まで、裏面:幕下以下を現行式の勝敗表示で対戦相手なしの簡略形式で掲載

星取表の勝敗表示
現行式:対戦相手(表示されていれば)の上に、当該力士の勝ちを「○」、当該力士の負けを「●」で示す。
旧式:当該力士の勝ちはマス目の上部(S14.5・S15.1・S15.5の十両の場合は右上部)に大きく表示された当該力士の四股名の右側(2場所合併形式のS5.3・S6.10の場合は左側、S14.5・S15.1・S15.5の十両の場合は下側)に「●」印を打って示し、当該力士の負けはマス目の下部(S14.5・S15.1・S15.5の十両の場合は左側)に並べて表記された対戦相手の四股名の上に「●」印を打つことで対戦相手の勝ち星として示す。引き分け・痛み分け・預り等を表す「×」「△」等の印は当該力士の四股名の右側と対戦相手の四股名の上の両方に示す。

Re: - gans@作成者

2025/03/09 (Sun) 10:34:38

ご指摘の通り、昭和7年5月と10月は同じ番付で、10月の方に西幕下3・能登錦が抜けていましたので追加しました。
当時の相撲雑誌の星取表でも能登錦は省略されており、8年1月番付にも見られないため、10月場所前にはもしかすると廃業していたのかも知れませんが詳細が分からないため全休扱いとしました。
お知らせ頂きありがとうございました。

Re: 昭和7年10月場所の幕下 - ビスタカー

2025/03/10 (Mon) 02:14:08

能登錦については、相撲レファレンスやWikipedia、小島貞二コレクションの番付実物画像などを見て、もう少し調べてみたら、昭和8年1月場所で一旦番付から消滅した後、同年5月場所で番付に再登場しているようです。下の名前も、昭和7年5月・10月場所と昭和8年5月場所の両者の番付で「久二」となっています。そして昭和10年1月場所で十両の地位で綾錦と改名し、その後幕内を3場所(十両陥落を挟んで)務めています。

Re: 昭和7年10月場所の幕下 - しろしたかれい

2025/03/11 (Tue) 22:07:59

ご存知とは思いますが、能登錦は昭和7年3月場所後に脱走し春秋園事件で脱退した革新力士団に加入しました。
昭和8年1月場所に別席の幕下格で復帰しています。

Re: - gans@作成者

2025/03/13 (Thu) 08:12:21

確かに、そうでした。見落としていました。
8年1月は別席の番付のチェックしないといけませんね。
ありがとうございます!

「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると - ビスタカー

2024/12/31 (Tue) 01:48:38

 大相撲の記録に関して、「相撲レファレンス」や、「大相撲.jp」といった強力なデータベースの他、このサイトの掲示板、小島貞二コレクションの番付実物画像、しろしたかれいさんの相撲起顕星取表やその掲示板、そして「相撲史に関心・興味のある方どうぞ」のブログ等を見てきて、大相撲の古い時代の下位力士の記録がどこまで残っているのか部分的ながら分かってきました。
 そこで、大相撲(江戸勧進相撲・東西合併前の明治大正の東京相撲等も含む)の番付・勝敗数等・星の並び・取組・対戦相手・決まり手等の現存する限りの全ての記録を集めた「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると、主に現代と制度が異なる部分などで、次のような課題(主にデータ構造・データ仕様上のもの)が挙がります(他には情報源やその信頼性などの問題もありますが)。既存の「究極の大相撲データベース」に近い存在として、相撲レファレンスと大相撲.jpとも比較して考察してみます。

【番付】
・番付上の横綱と称号としての横綱の区別、大坂相撲の横綱の扱い
 番付に横綱の文字が表記されたのは、明治23年(1890年)の第16代横綱の初代西ノ海が最初で、それ以前は横綱は地位ではない名誉称号でした。データベース上歴代横綱一覧を作るなら、番付上の横綱と称号としての横綱を区別し、後者によって表を作成する必要があります。相撲レファレンスでは初代西ノ海以前も代数のある横綱として扱っているのに対し、大相撲.jpの歴代横綱一覧では番付に横綱の文字が表記される以前の第4代横綱の谷風から第15代横綱の梅ヶ谷までは一覧にありません。
 明石・綾川・丸山は相撲レファレンスと大相撲.jpの両データベースにおいて場所別成績が空のデータとして歴代横綱のリストにあります。
 大坂相撲の横綱ですが、現役の全期間にわたって大坂相撲に所属していた大木戸と大錦大五郎は両データベースの歴代横綱のリストにありますが、横綱昇進前に東京相撲に所属していた若嶌は相撲レファレンスのみ歴代横綱のリストにあり、大相撲.jpのリストにはありません。大坂相撲で横綱に昇進し、後に東京相撲でも横綱として活躍した宮城山はもちろん両データベースのリストにあります。
・明治21年(1888年)1月場所以降の十両・幕下と、それ以前の二段目の区別
 番付の表記上は、明治21年(1888年)1月場所に、以前の幕下二段目が十両と幕下に分かれ、十両が創設されましたが、それ以前のデータベース上の扱いについては、相撲レファレンスと大相撲.jpの両データベースとも、二段目10枚目以上を「十両」として扱っています。相撲レファレンスでは番付表記上の十両創設前の二段目11枚目以下は一切取り扱っておらず、大相撲.jpでは二段目11枚目以下は主に二段目10枚目以上(データベース上「十両」扱い)と対戦した力士のみをデータベース上「幕下」として扱い、しかもその枚数のデータがある場合も二段目としての枚数となっていたと思います。江戸相撲の初期の記録に遡ると、幕内(上段)と二段目10枚目までの星取表上で、対戦相手としてのみ登場する四股名は、11枚目以下の二段目に限らず、三段目以下も登場する例があり、最も極端な場合は関脇が後述の六段番付の四段目に負けた例もあったと記憶しています。このような下位力士は実際の地位にかかわらず、相撲レファレンスでは「十両30枚目」「十両40枚目」(枚数情報なしという意味だろう)扱い、大相撲.jpでは「幕下」(枚数情報ありとなしの場合あり)扱いとなっています。「究極の大相撲データベース」を目指すなら「十両」・「幕下」・「二段目」の区別をはっきりさせたいところです。
・張出(特に地位表示なしの三役格の張出)・別席・客席・欄外・番付外(序ノ口の下の前相撲等ではなく、古い時代の番付上の各地位に相当する番付に記載されない力士)等の扱い
 番付表記上の張出そのものは平成6年(1994年)5月場所までありました(一人横綱の曙、それ以降の小結以上の2番手以降の枠内表記の相撲ファンの間の呼称としての「張出」は除く)。張出は横綱や三役というイメージが強いかもしれませんが、昭和50年代の公傷力士や、更に古い時代の番付など、前頭以下にも張出があったこともあります。戦後しばらくの間までは、番付上の各地位に相当する番付に記載されない力士という意味での「番付外」の力士もいましたし、春秋園事件からの復帰力士は「幕内格別席」など「別席」となっていましたし、また戦時中の応召入営力士が「欄外」となっていたこともありました。
 そこまではデータベース上もいいと思いますが、古い時代の番付では、地位表示なしの三役格張出や、地位表示が「客席」となっている張出もありました。実際の扱い上の地位がはっきりしないものは、データベース上どう扱うべきかですね。
・本中・相中・前相撲・新序等の扱い
 序ノ口の下の番付に載らない地位は、現在では前相撲だけですが(現在ではこの地位を番付外ともいう)、かつては序ノ口と前相撲の間に、本中(1973年(昭和48年)3月場所まで)、相中(間中とも表記、明治期まで)がありました。番付に載らない前相撲等にはそれぞれの力士の順位はありませんが、江戸相撲の一部の番付(初期の番付など)には、中相撲(本中・間中)・前相撲が掲載されたものもありました。1934年5月場所から1960年11月場所までは、序ノ口と前相撲の間に新序という階級もあり、実物の番付表には載りませんが、その中での順位もあったようです。「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築するならば、順位の有無も考慮すべきですね。
・番付上の地位と実際の扱い上の地位が異なる場合の扱い
 番付の誤編成の訂正等の理由により、番付上の地位と実際の扱い上の地位が異なる場合もありました。実例としては、昭和43年(1968年)1月場所の序二段・序ノ口の前代未聞の大量の誤編成、昭和52年(1977年)7月場所の雄皇(番付上西序ノ口6枚目、実際の扱いは東序二段112枚目2番手)、平成元年(1989年)1月場所の二子桜(番付上東序二段44枚目、実際の扱いは三段目100枚目格)などがあります。それをまとめた一覧として、ネットのページでは、「大相撲・記録の玉手箱」のアーカイブの私家版正誤表があります。この情報は、注釈やコメント等、参考情報等としてデータベースに組み込むのもありかもしれません。1977年7月場所の雄皇のケース(東序二段112枚目に2名在位)などの扱いもデータベース上どうするかというところです。ちなみに、番付の誤編成については、平成元年(1989年)1月場所の二子桜を最後にそれ以降の例は寡聞にして知りませんが、コンピュータの発達もあって一人一人勘案してしっかり編成される傾向が強くなったということでしょうか。
・江戸相撲の初期の六段番付の扱い
 江戸相撲の初期には、現在と異なる中相撲・前相撲なしの六段番付もありました。番付表記上の地位名称は名付けるなら上段(幕内)・二段目・三段目・四段目・五段目・六段目となります。このうち特に六段目の力士などは相撲レファレンス・大相撲.jpとも一切扱われていないようですが、「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築する上では現在の地位構成との区別もつけるべきですね。
・初期の五段番付の地位名称の扱い
 江戸相撲の初期の番付では、先に示した六段番付でなくても、初期の五段番付の地位名称は、「幕内・二段目・三段目・序二段・序ノ口」ではなく、「上段・二段目・三段目・四段目・五段目」とすることも考えられます。これを適用するとしたら、データベース上どこまでこれを適用すべきかですね。
・四股名・番付原本の不明部分の扱い
 特に古い時代の番付表になると、判読不能文字がある場合があります。幕内(上段)力士だと「虎ヶ嶽 *右エ門」(以下不明な字は「*」で示す。下の名前は一説に「岸右エ門」)の例がありますが、現在既存の両データベースで扱われていない江戸時代の下位力士だと、四股名が「*」あるいは「**」とかになってしまうケースも考え得ます(実際、あるページの情報では、巡業番付や大坂相撲の若者頭・世話人で「*」「**」のケースがありました)。また小島貞二コレクションの寛政7年3月場所の番付は、東方の四段目(序二段)・五段目(序ノ口)の一部が破損しています。この辺りをデータベースでどう扱うかも検討が必要ですね。
・力士以外の番付上・番付外の人物情報(行司・年寄・若者頭・世話人・呼出・床山等)
 番付表には力士以外にも、行司・年寄・若者頭・世話人・呼出・床山等の名前も掲載されています。実際には呼出・床山は下位者は番付に掲載されておらず、床山が番付に載ったのは平成20年(2008年)1月場所からですし、呼出も番付掲載は昭和24年(1949年)5月場所から昭和34年(1959年)11月場所までと番付制導入の平成6年(1994年)7月場所以降ですが、これらも「究極の大相撲データベース」を目指すならばできれば場所ごとに登録すべきだと思います。銀河大角力協会のページには場所ごとにこれらの情報をまとめた表もあります。年寄・若者頭・世話人はもちろん元力士ですし、行司は歴史上年寄を襲名したこともありますし(実際に相撲レファレンスでは年寄を襲名した行司も力士に準ずる形式でデータ登録されています)、元力士の呼出や床山の例は現役でもあります。また古い番付から通しで番付を見ると、行司の下と東西の序ノ口の左側は歴史的にはいわば「自由記述欄」とでも言えそうで、時代による変遷の多い部分となっており、江戸時代なら行司の下は世話役・勧進元・差添で、序ノ口の左側に版元が描かれていましたし、明治時代だと「組長」「取締編輯人」「願人」だの、「勝負検査役」の出現だの様々あります。
 そこで、これらも含めてデータベースを構築するとなると(「此外中前相撲東西ニ御座候」「千穐万歳大々叶」は人物ではないのでデータベースには含めないとして)、例えば行司の格をどうするかが問題になりそうです。現行制度での行司の格は、立行司・三役格・幕内格・…・序ノ口格ですが、一時期は立行司と三役格の間に副立行司がありました。そこまではいいのですが、戦前までの番付表では現在ほど番付上の格が明確でないので、ネットのサイトでは「~人目」とか、銀河大角力協会の場所別のまとめ表の戦前の欄だと「四段目右」「五段目左」などという表現がなされています。また呼出の番付制以前や、床山の等級がはっきりしない時代とか、この辺りをどう扱うかですね。

【勝敗等の記録】
・引き分け・痛み分け・預かり・無勝負の扱い
 現在の大相撲にはありませんが、かつては引き分け・痛み分け・預かり・無勝負がありました(引き分け・痛み分けの規定は現在も一応ありますが、21世紀に入ってからは実例は皆無です)。「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築する場合、これを表す記号は議論が必要ですね。参考までに、既存のページ・データベースでは次のようになっています。
 このサイト  引き分け:× 痛み分け:× 預かり:△ 無勝負:ム
 日本相撲協会  引き分け:× 痛み分け:△
 (日本相撲協会方式の拡張)  引き分け:× 痛み分け:△ 預かり:ア 無勝負:ム
 相撲レファレンス  引き分け:△ 痛み分け:△ 預かり:△
 大相撲.jp  引き分け:分 痛み分け:分 預かり:預 無勝負:ム
 その他、近年では無勝負を「◇」としている資料もあるとどこかで見た記憶があります。またこのような引き分けの類が多くあった当時の取組結果の記述では、この他に「痛預」もあったという情報もあります。
・休場数の扱いと「や(ヤ・休)」・「-」・「?」・空白の区別
 星取表における「や(資料によってはカタカナの「ヤ」、あるいは古い資料だと漢字の「休」を使う例が多い)」は「休場」を示すとともに、幕下以下の「取組なし」も示します。近年ではネットのページ等で、「や」を休場のみに用い、幕下以下の「取組なし」には「-」を使うことで区別している例もあり、日本相撲協会のHPも最近までその「や・-」方式でした。相撲レファレンスはドイツ人のサイトなので、休場・取組なしとも「-」です。
 関取の休場数は「や」を数えるだけでいいのですが、幕下以下の休場数は「や」の数ではなく7番のうち何番分を休場しているかによって判断せねばならないため、例えば2024年11月場所の東三段目34枚目(このサイトの範囲外)の隠岐の浜は「や」方式で「○やや○や○や●や■ややややや」、「や・-」方式で「○--○-○-●-■ややややや」となり3勝2敗2休で、「や・-」方式の方が休場期間はわかりやすいと思いますが、それでも「や」は5つありますが2番分なので2休となります。
 しかし、日本相撲協会のHPは最近伝統的な?「や」方式に変わったようです。実際、2024年11月場所の東幕下3枚目の上戸は、「や●●■ややや○●や○や●や○」(3勝5敗・8番相撲)でした。これは本来なら5日目・6日目のいずれかに組まれるはずの3番相撲が対十両戦で4日目に組まれ、そこで休場届を提出して不戦敗となりましたが、中日の4番相撲から出場して休場数が付かなかった形です。これは「や・-」方式なら僕なら「-●●■---○●-○-●-○」と書きます。もし仮に4番相撲からずっと休場して「や●●■ややややややややややや」(0勝3敗4休)となれば、「や・-」方式なら僕なら7日目・8日目のいずれかが4番相撲が本来組まれるべき日なので「-●●■--ややややややややや」と書くところですが、このように幕下上位や序ノ口下位でその区別が曖昧な星取が出るからなのでしょう。幕下上位や序ノ口下位で調整のため休場を含む者が最終3日間に2番取った場合、「や・-」方式での「や」の番数分より公式成績の休場数が1つ少ないことも起こり得ます。
 幕下以下の休場・取組なしの扱いについては、休場数に関しては大相撲.jpの方式が一番わかりやすいでしょう。大相撲.jpの方式は、関取の休場は「ヤ」とし、幕下以下は取組なしを空欄として休場は13日目までの奇数日のみに「ヤ」を付ける方式としています。   
 で、古い時代の相撲レファレンスにおける休場数の扱いですが、幕内は宝暦時代から休場数を表示しているのに対し、番付の一部しか登録されていない昭和9年(1934年)1月場所までの幕下以下や、大正までの十両では休場数は表示していないようです。
 このサイトでは休みの定義がはっきりする昭和3年(1928年)以降について休みの日数(幕下は何番分休んだか)を表示しており、「究極の大相撲データベース」構想だとそれに準ずることになりそうかと思います。
 そして、このサイトの昭和3年(1928年)3月場所の幕下星取表及び大坂相撲の星取表の一部には不明部分を表す「?」があり、これは「究極の大相撲データベース」構想だと当然表示上の勝敗数等にも休場数にも含まれないことになります。江戸時代の明和6年(1769年)4月場所の7日目も勝敗記録が現存せず不明とされていますね。
 あと、相撲レファレンス・大相撲.jpの両データベースとも、1場所の日数が15日より短かった時代は、星の並びが登録されている場合、15日分用意されている星取表のスペースのうち最終日より後の部分を空白としています。この空白は、後述の相撲レファレンスの中学生力士の3番相撲等のデータにもあります。
・取組情報・取組順について
 取組情報は、相撲レファレンス・大相撲.jpの両データベースとも、明治42年(1909年)6月場所からの登録となっており、それ以前は登録されていません。ただ、大相撲.jpの方は、それ以前についても星取表の対戦相手情報は登録されています。
 また取組順についてですが、X(旧Twitter)によれば、相撲レファレンスの取組順について、昭和期やそれ以前の取組順がほぼ全場所不正確で誤りが多いことが指摘されており、一方大相撲.jpの方式は、大正期を見ても幕内の取組順が中入前と中入後のそれぞれで横綱・大関の取組があるような順番となっていました。
 古い時代の取組順まで正確に再現しようとすると、当時の勝負付や新聞などが必要ですね。取組順が不明な場合はその旨をコメント等で示せばよいかと。
・優勝決定戦の扱い
 優勝決定戦は、本割ではないため、通算成績には含まれません。相撲レファレンスでは優勝決定戦は、便宜上「16日目」として扱い、取組表で見ることができるほか、星の並びには含まれなくても力士の場所の成績表示の下の欄で見ることができます。対して大相撲.jpでは、千秋楽の取組表でのみ優勝決定戦の取組・結果を見ることができます。データベース構築ではどう表示させるかですね。
・星の並びがなく勝敗等の数のみのデータの扱い
 相撲レファレンスでは、明治42年(1909年)1月場所までの番付の全力士や、昭和41年(1966年)9月場所までの幕下16枚目以下の大部分が、星の並びがなく勝敗等の数のみのデータとして登録されています。対して大相撲.jpを見ると、昭和41年(1966年)9月場所までの幕下16枚目以下の大部分の星の並びのないデータは、0勝0敗扱いとなっています。「究極の大相撲データベース」を目標にデータベースを構築するなら、暫定的な措置として「星の並びがなく勝敗等の数のみのデータ」も入れられるようにしておきたいと思います。
・1日に2番以上取った力士の扱い
 番付掲載力士は、本場所では1日に1番しか取らないのは当たり前のように思われていますが、古い星取表だと、明和6年(1769年)10月場所の二段目、明治40年(1907年)1月場所の十両、そして大坂相撲も含めるならば明治45年(1912年)1月場所の十両などのように、1日に2番取った力士がいた場所もあります。相撲レファレンスと大相撲.jpの両者とも、大坂相撲の番付はもちろん取り扱っていませんので、この3場所のうち大坂相撲以外の2場所のデータを見ると、相撲レファレンスでは明治42年(1909年)1月場所までの星の並びは一切登録されていないのに対し、大相撲.jpでは、1日に2番取った力士の1番目は本来の日の欄に、2番目は最終日の次の日の欄に登録されています。あと、現代でも前相撲では1日に2番以上取る力士もいます。
・江戸時代の五人掛けの扱い
 明治以降現代までの本場所では見られませんが、江戸時代には本場所で五人掛けが行われた例もありました。その両データベースでの扱いはというと、まず相撲レファレンスでは江戸時代の成績は勝敗数等の情報のみで星の並びや対戦相手の情報はなく、「五人掛」が実際にはそういう名前の力士ではないものの、疑似的に?力士データとして登録されています。対して大相撲.jpでは江戸時代でも星の並びや対戦相手の情報は登録されていますが、五人掛けの場合は対戦相手は空欄となっています。
・幕下以下が別日程になった場所の扱い
 大正12年(1923年)1月場所に三河島事件のため幕下以下の取組が前倒しで7日間行われ、本場所再開後に残りの3番が行われたのと、戦争末期の昭和19年(1944年)5月場所・11月場所、昭和20年(1944年)6月場所に幕下以下の取組が別日程・別の場所で5日間行われた例がこれに当たります。
 「1日に2番以上取った場合」・「江戸時代の五人掛け」・「幕下以下別日程(特に幕下上位での対十両戦が絡んできた場合)」、この3点は究極の大相撲データベースを目標に構築する上でまともに取り扱おうとすると、特殊な処理が必要となりそうですね。
・中学生力士の3番相撲等の扱い
 昭和46年(1971年)11月場所中日、中学生力士が4番相撲を終わった段階で帰京させられ、以降は中学生力士の新規入門禁止、既に採用している中学生力士は卒業まで東京場所の日曜のみの出場で3番相撲となり、地方場所は番付維持の全休となりました。
 中学生力士の帰京場所と3番相撲は、15日間でありながら関取(15番)とも通常の幕下以下(7番)とも異なるタイプの特殊な星取表となり、前述の「や」方式と「や・-」方式で表してみると、帰京場所の昭和46年(1971年)11月場所の琴風(東序二段97枚目)は「や●や〇〇や〇やややややややや」「-●-〇〇-〇--------」、昭和47年(1972年)1月場所の琴風(西序二段59枚目)は「●やややややや〇やややややや●」「●------〇------●」とでもなるところだと思います。それで既存のデータベースでの扱いはというと、中学生力士の帰京場所は両データベースとも9日目以降空白となっていますが、それ以降の卒業までの3番相撲は相撲レファレンスでは例えば昭和47年(1972年)1月場所の琴風(西序二段59枚目)を例に取れば「●-    -〇    --●」(空白と「-」の入った形、幕下以下7番取組制の1番・4番・7番相撲本来組まれるべき日に合わせたのだろう)となっているのに対し、大相撲.jpではその空白を詰めたためか、「●  〇  ●        」と初日・4日目・7日目の欄に入った形となっています。

【その他】
・大坂相撲・京都相撲の扱い
 大坂相撲については、このサイトでも不明部分を含む星取表もあるとはいえ、ある程度のレベルの星取は判明しており、究極の大相撲データベースを目指すなら江戸・東京相撲・現代の大相撲に準ずる形式で組み込むこともできると思います。対して京都相撲は断片的にしか記録が残っていないようで、銀河大角力協会のサイトの優勝力士一覧も半分以下しか埋まっていない有様です。ただ、既存の両データベースとも、歴代横綱の大木戸と大錦大五郎以外にも、大坂相撲にしか所属していなかった力士が年寄名跡の襲名者を示すためだけにデータ登録されてはいます。

 そして、「究極の大相撲データベース」ができたとしたら、例えば珍名力士で、「い」「イ」(いずれも読みは「かながしら」)の力士は大坂相撲も含めて最低でも以下の4人が登録されることになりますね。「#」は相撲レファレンス風で、正確な読みが不明なための推定(あるいは便宜的な読み)を示します。既存の両データベースでは1人も登録されていませんが。
「イ 吉三(かながしら よしぞう#)」・「い 多理(かながしら たり#)」・「い 一(かながしら はじめ)」(「イ 一」表記もあり)・「い 助治郎(かながしら すけじろう)」
更に、「三毛猫 泣太郎(みけねこ なきたろう)」とか「豆鉄砲 芳太郎(まめでっぽう よしたろう)」「蟻ノ子 藤太郎(ありのこ とうたろう)」、更に大坂相撲だと「三ツ△ 鶴吉(みつうろこ つるきち)」「ヒーロー 市松(ひーろー いちまつ)」とかも登録されているのを想像します。ただ明治前半の最高位序二段や序ノ口の力士、「三ツ△ 鶴吉」「ヒーロー 市松」の場合は明治の見習なので、勝敗記録の現存は期待できないので各場所の成績・通算成績は「0勝0敗」扱いとか。
 もう少し有名なところでは、「器械舟 源吾(きかいふね げんご)」・「電気燈 光之介(でんきとう こうのすけ)」・「片福面 大五郎(かたおかめ だいごろう)」の、いわば「明治・珍名・初切・関取目前」トリオや、華吹以前に50代で勝ち越した最高位幕下の「若木野 金介(わかきの きんすけ)」も相撲レファレンスに未登録です。ただ器械舟と電気燈は大相撲.jpに登録されていますが。
 最後におまけとして、珍名というほどでもありませんが、両データベースに未登録の力士ということで、小島貞二コレクションでいくつか目に留まった明治~昭和初期の下位力士の四股名を紹介して終わりにします。
「枳 鉄五郎(からたち てつごろう)」「入汐 正吉(いりしお  しょうきち#)」「磊 千代枩(さざれいし# ちよまつ)」「夕暮 正五郎(ゆうぐれ しょうごろう)」「乙女石 浅吉(おとめいし# あさきち)」「太閤山 政二郎(たいこうやま せいじろう)」「糸魚川 宏(いといがわ ひろし)」「安藝ヶ嶽 藝州男(あきがたけ げいしゅうお#)」

Re: - gans@作成者

2025/01/02 (Thu) 16:35:58

素晴らしいと思います。
完成された暁には、ぜひ見せて下さい。
楽しみにしています。

Re: 「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると - ビスタカー

2025/01/04 (Sat) 00:15:04

この「究極の大相撲データベース」構想は、「相撲レファレンス」「大相撲.jp」の既存の両データベースの現状の問題点などを掘り下げた上で勝手に想像しただけのもので、僕自身が一人で個人で構築するようなつもりは全然ありません。実際にやるとなればそれこそ一大プロジェクトとなりそうですし、江戸時代で相撲起顕にない時代の勝負付とか相撲博物館にしかないような情報とかもあると思います。そういうプロジェクトがどこかにあってもいいような気もしますが。

ただ、小島貞二コレクションの相撲番付の実物のうち、江戸時代のものについてはテキストへの翻刻の作業が終了しています。

ちなみに、江戸相撲の現存最古とされる宝暦7年10月場所の番付(テキスト翻刻)で、「四股名・番付原本の不明部分の扱い」で述べた、四股名「**」(判読不能2文字だけ)のケースが西五段目(現代風に言えば序ノ口)16枚目にありました。他にもいくつか番付翻刻の例を見てみます。


宝暦7年(1757年)10月場所

五段目(現代風に言えば序ノ口)
東         西
亀割 定五郎  13 武蔵野 沢右衛門
中見山 藤八  14 袖ノ浦 勝五郎
稲荷山 又市  15 藤戸川 久治
霊国山 庄五郎 16 ** 雁右衛門
        17 三上山 太七
        18 水川棹 滝右衛門
        19 碧林 源助

本中(番付レイアウト上六段目)
東         西
若波 新介   16 綾瀬川 長介
田子浦 安五郎 17 袖ノ浦 長右衛門
天神山 権八  18 むさし川 弥五郎
        19 **浦 **門

宝暦8年(1758年)10月場所

前相撲(番付レイアウト上八段目、六・七段目は中相撲)
宮木山 浦右衛門 13 早川 勝蔵
*川 定右衛門  14 小里山 銀蔵
小柳 平七    15 霞** *太郎
磯ノ浦 浜之助  16 浅世川 段吉
白嶽 新七    17 荒駒 喜十郎


あと、既存の両データベースの現状についてもう少し見ていきます。

相撲レファレンスの幕下以下の現時点での登録状況は次のようになっています。
優勝力士・一部の後の幕内経験者等のみ登録:明治42年(1909年)6月場所~
序ノ口までの番付及び勝敗等の数が完全登録:昭和9年(1934年)5月場所~(この場所から相撲協会が各場所後に発行する星取表が全力士掲載)
星の並びが完全登録:昭和41年(1966年)11月場所~(それ以前の幕下16枚目以下の大部分は、相撲レファレンスでは「星の並びがなく勝敗等の数のみのデータ」として登録されているが、前に投稿したようにそれに相当する部分は「大相撲.jp」では「0勝0敗」扱い)
取組(対戦相手情報)が全力士完全に登録されており、なおかつそれが現在まで連続的に登録:平成元年(1989年)1月場所~(それ以前も飛び飛びではあるが取組(対戦相手情報)が全力士完全に登録されている場所がある)
決まり手情報まで完全登録:平成3年(1991年)7月場所

また、大相撲.jpでは、明治42年(1909年)6月場所~昭和9年(1934年)1月場所の幕下の筆頭~15枚目は、このサイトの星取表を参照しているようで、大半が埋まっていますが、関取経験も対十両戦経験もない力士が未登録となっているようです。

Re: 「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると - 西の関

2025/01/06 (Mon) 11:46:09

以前、相撲博物館に相撲起顕以前の勝負付をコピーしてもらえないか頼んでみたことがあります。最初は担当者の方に快諾していただき、近日中に発送しますのでお待ちくださいというところまで話が進んだのですが、上から圧力でもあったものか、ある日電話が掛かって来て、一転拒否の返事に変わりました。
担当者の言うには、将来に残るプロジェクト等なら協力できるが、個人が趣味で閲覧するというのでは許可できないということでした。なんか噓くさい言い訳だとも思ったんですが、もしもそれが本当ならば、「究極の大相撲データベース」構想が現実に動き出せば、そしてその進捗状況をネットで示すことができたりすれば、当然見せてもらえるはずですよね。

当方、戦後の「相撲」誌の昭和24年の復刊第1号から63年12月号まで、○○引退記念号等の特殊な増刊以外は全冊所持しています。
幕下以下全力士対戦相手つき星取表は27年春場所以降、幕内全取組土俵観戦記は29年初場所以降(それ以前は好取組のみ)掲載されています。

「究極の大相撲データベース」プロジェクトに必要なものがあれば可能な範囲で協力したいと思います。

Re: 「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると - ビスタカー

2025/01/11 (Sat) 02:11:46

「究極の大相撲データベース」構想の上での参考ということで、特殊星取の例をまとめてみます。

・特殊星取の例:「1日に2番以上取った力士の扱い」関連

[江戸時代]
明和5年(1768年)9月場所:東二段目5枚目 秋津川 ○[○●]●●●●●●
明和6年(1769年)10月場所:東二段目9枚目 雁股 ●●●○●[○●]○●

[明治時代]
明治40年(1907年)5月場所:東十両筆頭 千年川 ○○●○○[×○]×○○や
明治40年(1907年)5月場所:西十両2枚目 利根川 ○●○×●[△●]●や○○

[明治時代・大坂相撲]
大坂相撲明治43年(1910年)1月場所:東十両筆頭 加州山 ●●○△△●[●○]○○△
大坂相撲明治45年(1912年)5月場所:西前頭12枚目 源氏山 や○●○○○△●[○○]○

[現代の前相撲]
前相撲の結果は、雑誌には載りますが、正規の記録としては扱われず、1日に2番以上取る場合もあることもあり、番付掲載力士と同様の形式で星取表が書かれることはあまりありませんが、仮に番付掲載力士と同様の形式で書いたらこうなると思います。
平成28年(2016年)11月場所:前相撲 鳴滝 --[○○○]------------
平成30年(2018年)1月場所:前相撲 福湊 --○[●●]●[●●][○○]--------
令和5年(2023年)5月場所:前相撲 雷輝勝 --○[●●]○[●○]---------
令和6年(2024年)7月場所:前相撲 古田 --○●●[○●]---------

・特殊星取の例:「江戸時代の五人掛けの扱い」関連

安永8年(1779年)10月場所:東小結 風師山 や○×○●○○●ム○
対戦相手記述(相撲レファレンス風)
2日目 ○ 三千ノ川
3日目 × 外ヶ濱
4日目 ○ 宮城野
5日目 ● 稲川
6日目 ○ 永濱
7日目 ○ 越ノ海
8日目 ● 谷風
9日目 ム 外ヶ濱
10日目 ○ 出羽海
10日目 ○ 日出山
10日目 ○ 江戸崎
10日目 ○ 雄山
10日目 ○ 真鶴

・特殊星取の例:「幕下以下が別日程になった場所の扱い」関連

大正12年(1923年)1月場所:西幕下7枚目 朝日岩 ○○●○●○○/○●○(本場所再開後1番目は何日目かネット上に情報がないので、本場所再開後は仮に何日目かを無視して星のみを示す)
本場所再開後2番目・4日目 ● 佐賀ノ山
本場所再開後3番目・5日目 ○ 長良川

昭和19年(1944年)11月場所:東幕下筆頭 和歌ノ海 ○●○○○/--○---●---
対十両戦1番目・関取日程3日目 ○ 小戸ヶ岩
対十両戦2番目・関取日程7日目 ● 双子岩

昭和20年(1945年)6月場所:東幕下筆頭 佐田岬 ●●●○○/--○---
対十両戦1番目・関取日程3日目 ○ 矢留石

以上の特殊星取では、1日に2番以上取った場合は角カッコで示し、別日程は斜線で区切ってみました。

あと、両データベースの関連データも紹介しようと思ったのですが、NGワードに抵触してしまいましたので省略しました。

Re: 「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると - 岩渕剛

2025/03/01 (Sat) 15:55:53

取組順にかんしては、昭和以前は中入り前に横綱・大関の取組を半分くらいやっていたと聞いています。現在でも、中入り前の十両結びの一番で柝が入って二声で呼ばれるのはその名残です。なお、相撲くじが導入された昭和21年11月場所でも、くじの対象となった3番が中入り前に組まれています。

また気になる箇所いくつか - ビスタカー

2025/02/11 (Tue) 01:31:31

「はじめに」のページでは、幕下(上位15枚目まで)の掲載を「戦後のみ」としていますが、以前は戦後のみだったと思いますが、いつ頃からか明治42年夏場所からの掲載となっていますので、「はじめに」のページの修正をお願いします。

明治42年夏場所、西十両9枚目荒駒の対戦相手が「五所革」となっていますが、東幕下筆頭の「五所車」ではありませんか?

2023年9月1日の投稿で指摘されていましたが、明治43年夏場所、東幕下3枚目錦戸は7日目に石山に負けているので、「●や○や○○●●やや」の3勝3敗のはずですが、いまだにサイトが修正されていません。

大正7年夏場所、東幕下11枚目は「勇嶋」となっていますが、これまた小島貞二コレクションの番付の実物画像を見ると、「男嶌舟藏」となっています。こちらは「嶋」と「嶌」の字体の違いについて考えるに、このサイトは古い時代の番付だと原典が「嶌」の場合「嶋」を採用しているようですので(他の力士の例だと「五ツ嶌」→「五ツ嶋」とか)、「男嶋」とすべきではないかと。

それと、おまけ的な情報ですが、この間想像で書いてみた「究極の大相撲データベース」構想にも繋がりそうなことですが、明治43年夏場所の「○石山-錦戸●」の根拠として挙げられていた新聞記事の画像を見ると、そこに載っている最初の取組は「○富士川-〆川●」となっています。この「富士川」と「〆川」の両者を小島貞二コレクションの明治43年夏場所の番付実物画像で見てみると、両者とも三段目でした。プロジェクトで「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築していくなら、万朝報のように序ノ口から載っていれば(実際には明治34年夏場所からのようですが)理想ですが、当時取組結果をどこから書き始めるかは新聞社によってまちまちだったようですね。

Re: - gans@作成者

2025/02/24 (Mon) 22:55:16

今回もご指摘ありがとうございます。
それぞれ確認のうえ、
五所革→五所車
錦戸3勝2敗→3勝3敗
勇嶋→男嶋
と訂正しました!
自己紹介ページもあわせて書き換えました。

大正2年春場所 - ビスタカー

2025/02/03 (Mon) 01:54:03

現状のこのサイトでは、西正横綱が梅ヶ谷で西張出横綱が太刀山となっていますが、これは番付の実物とは逆で、小島貞二コレクションの番付の実物画像を見る限りでは西正横綱が太刀山で西張出横綱が梅ヶ谷となっています。これは相撲レファレンスの「What's new?」のフォーラムでも指摘されているところで、最近相撲レファレンスは番付の実物をもとに修正したところです。

Re: - gans@作成者

2025/02/04 (Tue) 21:16:22

ありがとうございます、修正しました。
小島貞二コレクションで簡単に実物の番付が見れるのは本当にありがたいです。
当時の新聞でも普通に太刀山が正横綱になっていますし、考えてみれば前場所が全勝優勝だった太刀山が張出に回る理由は無いですね。

豊錦喜一郎 - 星取大好き

2025/01/13 (Mon) 10:13:14

戦前から勝ち越しが続けた豊錦喜一郎ですが、昭和20年11月場所、帰還したが、そのまま土俵に上がることもなく廃業したけど星取表を見ると番付外のなってる。前頭20枚目格?
同じく常陸海は帰還して出場した。位置は前頭18枚格。

番付外出場した力士たちはその位置を決め方は?

Re: - gans@作成者

2025/01/19 (Sun) 22:41:31

応召前の地位などが参考なのかなと思います。
このサイトでは「大相撲人物大事典」などを参考にして作ったと思います。
手元に資料がないため、うろ覚えですみません。

今回デビューの「碇潟」繋がりで、番付面の字体などについて - ビスタカー

2025/01/12 (Sun) 23:41:23

甲山親方(元幕内大碇)の次男が、下の名前も含め「碇潟 忠剛」の四股名で三段目付出でデビューしました。
四股名で、古い時代によくあったが近年見ない「潟」の字についてですが、相撲レファレンスで調べてみると、直近は次のようになりました。
・幕下以下も含めた「潟」の付く四股名の力士:松浦潟(最高位は昭和53年7月場所の幕下14枚目、下の名前は最高位時「浩嗣」、引退時「浩志」、昭和61年9月場所引退)
・「潟」の付く四股名を名乗ったことのある関取経験力士:八雲潟(関取昇進前の幕下73枚目の昭和34年11月場所のみその四股名を名乗る。最高位前頭8枚目を記録した昭和41年9月場所時点での四股名は「大心 昇」、昭和44年3月場所に引退した時点での四股名は本名の「長田」)
・「潟」の付く四股名で関取を務めた力士:大蛇潟 金作(最高位は昭和29年1月場所の前頭筆頭、昭和32年11月場所引退)
・「潟」で終わる四股名にこだわらないと、八潟錦(最高位前頭8枚目(昭和32年1月)、昭和39年1月場所引退の芳野嶺が関取昇進前に名乗っていた四股名)の例もありました。
古風な四股名多用の伊勢ノ海部屋だけあってそれも分かりますが、番付面の「潟」の字体は、伝統的には略字の「シ写」(さんずいに写)が用いられ、上に示したような「潟」の付く四股名自体が見られなくなってからも、出身地の「新潟」で平成の途中までこの字体が用いられ、後に正字化しました。今回の「碇潟」は、今の番付表が基本的に微妙な漢字の字体の違いまで正確に書かれていることからして、来場所番付表に載るときはおそらく正字の「碇潟」となり、正字の「潟」の字の番付表での史上初採用になるのではと思います。

それで、番付表の字体、主に一般と異なるものについて考察してみます。
・伝統的に用いられ、現代の番付でも用いられている字体
 ・地位に用いられるもの
  ・「横綱」(「黄」の上部の横画が離れ、「綱」の「山」も「止」となっている)
  ・「大関」(門構え)
  ・「関脇」(門構え、「脇」の旁)(「脇」は四股名にも)
  ・「前頭」の「前」の「月」(四股名等にも)
  ・「同」(幕下以下、「前頭に同じ」の意味。幕下ではどうがまえの中に「一ユ」の字体、三段目以下ではどうがまえの中に点の略字)
 ・出身地・四股名等に用いられるもの
  ・「海」(時津海の例外を除いて、右上に点を打った独特の字体)
  ・「山」(最終画が下に突き出て跳ねる)
  ・「花」「若」などの草冠(「ソ一」のような字体)
  ・「一」(起筆部分に点を打つ)
  ・「風」
  ・「琴」
  ・「羽」
  ・幕下以下の「二」(「く」のような字体)
  ・幕下以下の「三」(「く」の上に点を打ったような字体)
  ・幕下以下のさんずい(全体的に繋がった字体)
 ・その他
  ・「蒙御免」の「蒙」
・かつて用いられていた字体
 ・出身地・四股名等
  ・「潟」→「シ写」(冒頭で説明済)
  ・「高」→はしご高(現代の番付では完全に区別して書かれています)
  ・四股名における門構え(平成の途中までは「大関」「関脇」等と同じ略字体でした(開隆山・金開山など)。)
  ・「森」→「木」の下に「ン人」(昭和期まで幕下以下の四股名に用いられ、平成の途中までは序二段以下の出身地の「青森」もこの表記でした)
  ・幕下以下の「龍」(「三」の部分が「く」のような字体、平成の途中まで)
  ・序二段以下の糸偏(「彡」のような字体、平成の途中まで)
  ・「郎」の略字(伝統的に幕下で用いられた略字体(丶マ||Pのような字体、Aとします)と、伝統的に三段目以下で用いられた更に簡略化した略字体(点の下に「へ」を左右反転させたものを書いたような字体、Bとします)があります。幕下の略字体Aは昭和56年3月場所から、三段目の略字体Bは昭和56年5月場所から正字化し、最終的には平成2年5月場所から序二段・序ノ口においても「郎」の略字体が全廃され正字化しました。それ以前にも平成元年5月場所・平成元年7月場所では序ノ口のみ略字体Bを用い、平成元年9月場所では「郎」の略字体を用いていません)
  ・「藤」の略字(大正時代には十両でも用いられており、「郎」の略字と同様昭和終盤まで幕下・三段目で、平成初期まで序二段・序ノ口で用いられていました)
  ・「豊」の略字(これも昭和終盤まで幕下・三段目で、平成初期まで序二段・序ノ口で用いられていました)
  ・昭和終盤までは幕下以下で、他にも「信」「嵐」や、「錦」などの金偏、「笠」「筑」などの竹冠(「ツ」のような字体)などにも略字体が用いられ、また「崎」→「嵜」、「政」→「正の下に又」のような例もありました。
  ・「鶴」→「寉」(戦前まで主に十両以下で使用)
  ・「松」→「枩」、「島」→「嶌」「嶋」、「梅」→「木の下に毎」、「柳」→「栁」「木の下に舛」(こちらも毎は右上に点)等(主に戦前)
  ・「響」→「几の下に音」(戦前の幕下以下)
 ・その他
  ・「大相撲挙行仕候」の「候」は伝統的に略字が用いられていましたが、平成24年3月場所から正字化しています。「此外中前相撲東西ニ御座候」の「候」も以前は略字でしたが、こちらは昭和58年11月場所から正字化しています。

こうして見ると、相撲文字(根岸流)は、伝統的な面が一部現在まで残りつつも、番付表の文字が時代を追うごとに略字の正字化等が進むのは、四股名の漢字を届け出通り正確に書くことが要請されるようになってきたことや、分かりやすさの要請なども影響しているのではないかと思います。

あとおまけとして、今度の名古屋場所の会場は、「IGアリーナ」と称していますが、今度の名古屋場所で果たして番付史上初のアルファベット採用になるのかも注目ですが、これは「相撲史に関心・興味のある方どうぞ」の管理者は「伝統半壊」ではないかと書いています。明治後期や大正時代の番付に電話番号が書かれた時も、アラビア数字ではなく漢数字表記でした。ちなみに番付に英語由来の外来語が初めて書かれたのは、昭和32年11月場所の「福岡スポーツセンター」だと思います。

Re: 今回デビューの「碇潟」繋がりで、番付面の字体などについて - ビスタカー

2025/01/13 (Mon) 18:05:22

あ、番付の英語由来の外来語ですが、大坂相撲だと明治の四股名で「ヒーロー市松」の例がありました。

相撲レファレンスとの食い違いを発見 - ビスタカー

2024/12/11 (Wed) 00:50:18

昭和5年3月場所の東幕下10枚目の開心ですが、相撲レファレンス及び「大相撲・記録の玉手箱」では7勝1敗で幕下優勝となっているのに対し、現状のこのHPでは6勝2敗となっています。どちらが正しいのでしょうか。

Re: 相撲レファレンスとの食い違いを発見 - ビスタカー

2024/12/11 (Wed) 00:57:02

ちなみに「大相撲・記録の玉手箱」は現在閉鎖されたサイトですが、アーカイブは残っています。

Re: - gans@作成者

2024/12/11 (Wed) 22:44:30

この時代の幕下星取表は、当時の相撲雑誌を参照しています。葛城市の相撲館「けはや座」様にて閲覧しました。
昭和5年3月の開心は、四日目●大和錦、六日目●大高山となっているわけですが、大高山の方を見ると六日目●開心となっており、これに手書きで○という書き込みがされています。
当時の相撲雑誌の星取表には誤植が多かったようで手書きの修正が多々されているのですが、基本的にこれを信用して作成しています。
ただし、翌場所の大高山が番付を下げていることから見ても、この日は●大高山○開心の方が辻褄が合います。
したがって7勝1敗の方が信憑性が高いと思います。

Re: - gans@作成者

2024/12/11 (Wed) 22:52:54

ちなみに「けはや座」様の豊富な雑誌類は色々な方から寄贈を受けたと聞いていますので、手書きの修正は「けはや座」様の調査によるものではなく、当時の雑誌の持ち主の方がなされたものだと思います。
中には修正内容が誤っている場合もあるかと思います。
確実な資料をお持ちの方がいれば、こちらの星取表も直したいと思いますが・・・

Re: 相撲レファレンスとの食い違いを発見 - ひげ

2024/12/13 (Fri) 22:08:17

当時の地方場所の下位の星取は元栃木山の春日野親方が検査役時代につけていた勝負付けで判明した部分も多いそうです。


ここに書き込まれる方はご存じかと思いますが。

Re: 相撲レファレンスとの食い違いを発見 - しろしたかれい

2024/12/14 (Sat) 14:13:28

野球界相撲号では◯開心●大高山となっています。昭和初期の下位力士の勝負を記載した雑誌を寡聞にして他に存じないのですがけはや座の雑誌がそれならば持主により開心の星が塗りつぶされた可能性もあるかと思います。

Re: - gans@作成者

2024/12/15 (Sun) 18:43:55

>しろした様
参照資料はご指摘の相撲号ですが、言われてよく見てみると、確かに開心の○を黒く塗った形跡がありました。
両者の翌場所の番付昇降を決め手に、○開心●大高山をひとまず結論として修正したいと思います。
ありがとうございました。

昭和21年秋場所 - 星取大好き

2024/11/10 (Sun) 22:34:08

昭和21年秋場所の幕下星取表の中に誤りがありました。

西幕下8
北ノ洋

(誤)
〇や●や●●や〇やや●〇や  3勝4敗

     ↓

(正)
〇〇や〇やや●や●や●や〇  4勝3敗

修正をお願いします。

Re: - gans@作成者

2024/11/24 (Sun) 23:37:42

お知らせいただき、ありがとうございます
(・ω・)ノ
北ノ洋の星取、それと玉輝と琴ノ花の星取もあわせて修正しました!

Re: 昭和21年秋場所 - 星取大好き

2024/11/25 (Mon) 11:41:56

ありがとうございました!

Re: 昭和21年秋場所 - ビスタカー

2024/12/10 (Tue) 23:04:45

今見たところ、明治45年夏場所の松ヶ崎の件は修正されていますが、昭和21年秋場所の北ノ洋などの件は修正されていません。

Re: - gans@作成者

2024/12/11 (Wed) 22:32:52

修正後のアップロードを忘れていました、すみません。
これで直ったかと思います。

明治45年夏場所について - ビスタカー

2024/11/24 (Sun) 00:14:42

明治45年夏場所、西十両10枚目苅藻川の8日目の対戦相手に「両國」とありますが、その場所には「両國」の名前はなく、当場所の東幕下4枚目の「松ヶ崎」(枩ヶ嵜)が次場所「両國」に改名しているはずなのと、当場所の「松ヶ崎」が全休となっており、矛盾があります。実際どうなのでしょうか。

Re: 明治45年夏場所について - 名無しさん

2024/11/24 (Sun) 16:40:48

朝日新聞によると、2日目の取組結果から「両國」に改名してるようです。(初日の新聞の2日目の割では松ヶ崎)

Re: - gans@作成者

2024/11/25 (Mon) 00:06:24

ご返信いただいた通りで、場所中に改名をしているため
松ヶ崎は全休ではなく、改名のうえ3勝1敗1預でした。
訂正いたしました!
ご指摘ありがとうございます(・ω・)ノ
新聞記事にも「幕下力士にて有望の称ある松ヶ崎は今回両國梶之助を襲名せり」とありました。

琴ノ花 - 星取大好き

2024/10/28 (Mon) 23:59:12

昭和20年夏場所の幕下下位
星取表は『琴ノ花』あるが、
番付はその名は無かった。番付外で出場してる?

Re: 琴ノ花 - しろしたかれい

2024/11/02 (Sat) 18:38:24

昭和19年秋場所が西幕下30で全休となっていますので
応召・入営(徴兵等により軍務等につくこと)により番付から外されたものの
夏場所前に解除されて番付外にて出場したものと思われます。
応召・入営した力士は当初番付・星取表に明記されていましたが
機密保持のため昭和17年以降番付から除かれることとなりました。

Re: 琴ノ花 - 星取大好き

2024/11/02 (Sat) 21:50:06

ありがとうございました。

Re: Re: 琴ノ花 - 星取大好き

2024/11/12 (Tue) 11:12:37

もう一つ気になることがあります。
琴ノ花と天覧山は同人物ですか?
出身地は琴ノ花・•香川県だけど天覧山と改名してから出身も
変わった。(香川県→埼玉県)昭和29年3月まで続けた。

Re: 琴ノ花 - しろしたかれい

2024/11/12 (Tue) 21:40:18

琴ノ花と天覧山は別人です。

八重錦→琴ノ花は本名宮西禎美、大正9年香川県生まれ、二所ノ関部屋。
天覧山は本名小川祐治、大正13年埼玉県生まれ、前名武昇、武隈部屋。
琴ノ花は昭和21年11月限りと思われます。


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