星取掲示板 175803


「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると

1:ビスタカー :

2024/12/31 (Tue) 01:48:38

 大相撲の記録に関して、「相撲レファレンス」や、「大相撲.jp」といった強力なデータベースの他、このサイトの掲示板、小島貞二コレクションの番付実物画像、しろしたかれいさんの相撲起顕星取表やその掲示板、そして「相撲史に関心・興味のある方どうぞ」のブログ等を見てきて、大相撲の古い時代の下位力士の記録がどこまで残っているのか部分的ながら分かってきました。
 そこで、大相撲(江戸勧進相撲・東西合併前の明治大正の東京相撲等も含む)の番付・勝敗数等・星の並び・取組・対戦相手・決まり手等の現存する限りの全ての記録を集めた「究極の大相撲データベース」を構築しようとすると、主に現代と制度が異なる部分などで、次のような課題(主にデータ構造・データ仕様上のもの)が挙がります(他には情報源やその信頼性などの問題もありますが)。既存の「究極の大相撲データベース」に近い存在として、相撲レファレンスと大相撲.jpとも比較して考察してみます。

【番付】
・番付上の横綱と称号としての横綱の区別、大坂相撲の横綱の扱い
 番付に横綱の文字が表記されたのは、明治23年(1890年)の第16代横綱の初代西ノ海が最初で、それ以前は横綱は地位ではない名誉称号でした。データベース上歴代横綱一覧を作るなら、番付上の横綱と称号としての横綱を区別し、後者によって表を作成する必要があります。相撲レファレンスでは初代西ノ海以前も代数のある横綱として扱っているのに対し、大相撲.jpの歴代横綱一覧では番付に横綱の文字が表記される以前の第4代横綱の谷風から第15代横綱の梅ヶ谷までは一覧にありません。
 明石・綾川・丸山は相撲レファレンスと大相撲.jpの両データベースにおいて場所別成績が空のデータとして歴代横綱のリストにあります。
 大坂相撲の横綱ですが、現役の全期間にわたって大坂相撲に所属していた大木戸と大錦大五郎は両データベースの歴代横綱のリストにありますが、横綱昇進前に東京相撲に所属していた若嶌は相撲レファレンスのみ歴代横綱のリストにあり、大相撲.jpのリストにはありません。大坂相撲で横綱に昇進し、後に東京相撲でも横綱として活躍した宮城山はもちろん両データベースのリストにあります。
・明治21年(1888年)1月場所以降の十両・幕下と、それ以前の二段目の区別
 番付の表記上は、明治21年(1888年)1月場所に、以前の幕下二段目が十両と幕下に分かれ、十両が創設されましたが、それ以前のデータベース上の扱いについては、相撲レファレンスと大相撲.jpの両データベースとも、二段目10枚目以上を「十両」として扱っています。相撲レファレンスでは番付表記上の十両創設前の二段目11枚目以下は一切取り扱っておらず、大相撲.jpでは二段目11枚目以下は主に二段目10枚目以上(データベース上「十両」扱い)と対戦した力士のみをデータベース上「幕下」として扱い、しかもその枚数のデータがある場合も二段目としての枚数となっていたと思います。江戸相撲の初期の記録に遡ると、幕内(上段)と二段目10枚目までの星取表上で、対戦相手としてのみ登場する四股名は、11枚目以下の二段目に限らず、三段目以下も登場する例があり、最も極端な場合は関脇が後述の六段番付の四段目に負けた例もあったと記憶しています。このような下位力士は実際の地位にかかわらず、相撲レファレンスでは「十両30枚目」「十両40枚目」(枚数情報なしという意味だろう)扱い、大相撲.jpでは「幕下」(枚数情報ありとなしの場合あり)扱いとなっています。「究極の大相撲データベース」を目指すなら「十両」・「幕下」・「二段目」の区別をはっきりさせたいところです。
・張出(特に地位表示なしの三役格の張出)・別席・客席・欄外・番付外(序ノ口の下の前相撲等ではなく、古い時代の番付上の各地位に相当する番付に記載されない力士)等の扱い
 番付表記上の張出そのものは平成6年(1994年)5月場所までありました(一人横綱の曙、それ以降の小結以上の2番手以降の枠内表記の相撲ファンの間の呼称としての「張出」は除く)。張出は横綱や三役というイメージが強いかもしれませんが、昭和50年代の公傷力士や、更に古い時代の番付など、前頭以下にも張出があったこともあります。戦後しばらくの間までは、番付上の各地位に相当する番付に記載されない力士という意味での「番付外」の力士もいましたし、春秋園事件からの復帰力士は「幕内格別席」など「別席」となっていましたし、また戦時中の応召入営力士が「欄外」となっていたこともありました。
 そこまではデータベース上もいいと思いますが、古い時代の番付では、地位表示なしの三役格張出や、地位表示が「客席」となっている張出もありました。実際の扱い上の地位がはっきりしないものは、データベース上どう扱うべきかですね。
・本中・相中・前相撲・新序等の扱い
 序ノ口の下の番付に載らない地位は、現在では前相撲だけですが(現在ではこの地位を番付外ともいう)、かつては序ノ口と前相撲の間に、本中(1973年(昭和48年)3月場所まで)、相中(間中とも表記、明治期まで)がありました。番付に載らない前相撲等にはそれぞれの力士の順位はありませんが、江戸相撲の一部の番付(初期の番付など)には、中相撲(本中・間中)・前相撲が掲載されたものもありました。1934年5月場所から1960年11月場所までは、序ノ口と前相撲の間に新序という階級もあり、実物の番付表には載りませんが、その中での順位もあったようです。「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築するならば、順位の有無も考慮すべきですね。
・番付上の地位と実際の扱い上の地位が異なる場合の扱い
 番付の誤編成の訂正等の理由により、番付上の地位と実際の扱い上の地位が異なる場合もありました。実例としては、昭和43年(1968年)1月場所の序二段・序ノ口の前代未聞の大量の誤編成、昭和52年(1977年)7月場所の雄皇(番付上西序ノ口6枚目、実際の扱いは東序二段112枚目2番手)、平成元年(1989年)1月場所の二子桜(番付上東序二段44枚目、実際の扱いは三段目100枚目格)などがあります。それをまとめた一覧として、ネットのページでは、「大相撲・記録の玉手箱」のアーカイブの私家版正誤表があります。この情報は、注釈やコメント等、参考情報等としてデータベースに組み込むのもありかもしれません。1977年7月場所の雄皇のケース(東序二段112枚目に2名在位)などの扱いもデータベース上どうするかというところです。ちなみに、番付の誤編成については、平成元年(1989年)1月場所の二子桜を最後にそれ以降の例は寡聞にして知りませんが、コンピュータの発達もあって一人一人勘案してしっかり編成される傾向が強くなったということでしょうか。
・江戸相撲の初期の六段番付の扱い
 江戸相撲の初期には、現在と異なる中相撲・前相撲なしの六段番付もありました。番付表記上の地位名称は名付けるなら上段(幕内)・二段目・三段目・四段目・五段目・六段目となります。このうち特に六段目の力士などは相撲レファレンス・大相撲.jpとも一切扱われていないようですが、「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築する上では現在の地位構成との区別もつけるべきですね。
・初期の五段番付の地位名称の扱い
 江戸相撲の初期の番付では、先に示した六段番付でなくても、初期の五段番付の地位名称は、「幕内・二段目・三段目・序二段・序ノ口」ではなく、「上段・二段目・三段目・四段目・五段目」とすることも考えられます。これを適用するとしたら、データベース上どこまでこれを適用すべきかですね。
・四股名・番付原本の不明部分の扱い
 特に古い時代の番付表になると、判読不能文字がある場合があります。幕内(上段)力士だと「虎ヶ嶽 *右エ門」(以下不明な字は「*」で示す。下の名前は一説に「岸右エ門」)の例がありますが、現在既存の両データベースで扱われていない江戸時代の下位力士だと、四股名が「*」あるいは「**」とかになってしまうケースも考え得ます(実際、あるページの情報では、巡業番付や大坂相撲の若者頭・世話人で「*」「**」のケースがありました)。また小島貞二コレクションの寛政7年3月場所の番付は、東方の四段目(序二段)・五段目(序ノ口)の一部が破損しています。この辺りをデータベースでどう扱うかも検討が必要ですね。
・力士以外の番付上・番付外の人物情報(行司・年寄・若者頭・世話人・呼出・床山等)
 番付表には力士以外にも、行司・年寄・若者頭・世話人・呼出・床山等の名前も掲載されています。実際には呼出・床山は下位者は番付に掲載されておらず、床山が番付に載ったのは平成20年(2008年)1月場所からですし、呼出も番付掲載は昭和24年(1949年)5月場所から昭和34年(1959年)11月場所までと番付制導入の平成6年(1994年)7月場所以降ですが、これらも「究極の大相撲データベース」を目指すならばできれば場所ごとに登録すべきだと思います。銀河大角力協会のページには場所ごとにこれらの情報をまとめた表もあります。年寄・若者頭・世話人はもちろん元力士ですし、行司は歴史上年寄を襲名したこともありますし(実際に相撲レファレンスでは年寄を襲名した行司も力士に準ずる形式でデータ登録されています)、元力士の呼出や床山の例は現役でもあります。また古い番付から通しで番付を見ると、行司の下と東西の序ノ口の左側は歴史的にはいわば「自由記述欄」とでも言えそうで、時代による変遷の多い部分となっており、江戸時代なら行司の下は世話役・勧進元・差添で、序ノ口の左側に版元が描かれていましたし、明治時代だと「組長」「取締編輯人」「願人」だの、「勝負検査役」の出現だの様々あります。
 そこで、これらも含めてデータベースを構築するとなると(「此外中前相撲東西ニ御座候」「千穐万歳大々叶」は人物ではないのでデータベースには含めないとして)、例えば行司の格をどうするかが問題になりそうです。現行制度での行司の格は、立行司・三役格・幕内格・…・序ノ口格ですが、一時期は立行司と三役格の間に副立行司がありました。そこまではいいのですが、戦前までの番付表では現在ほど番付上の格が明確でないので、ネットのサイトでは「~人目」とか、銀河大角力協会の場所別のまとめ表の戦前の欄だと「四段目右」「五段目左」などという表現がなされています。また呼出の番付制以前や、床山の等級がはっきりしない時代とか、この辺りをどう扱うかですね。

【勝敗等の記録】
・引き分け・痛み分け・預かり・無勝負の扱い
 現在の大相撲にはありませんが、かつては引き分け・痛み分け・預かり・無勝負がありました(引き分け・痛み分けの規定は現在も一応ありますが、21世紀に入ってからは実例は皆無です)。「究極の大相撲データベース」を目指してデータベースを構築する場合、これを表す記号は議論が必要ですね。参考までに、既存のページ・データベースでは次のようになっています。
 このサイト  引き分け:× 痛み分け:× 預かり:△ 無勝負:ム
 日本相撲協会  引き分け:× 痛み分け:△
 (日本相撲協会方式の拡張)  引き分け:× 痛み分け:△ 預かり:ア 無勝負:ム
 相撲レファレンス  引き分け:△ 痛み分け:△ 預かり:△
 大相撲.jp  引き分け:分 痛み分け:分 預かり:預 無勝負:ム
 その他、近年では無勝負を「◇」としている資料もあるとどこかで見た記憶があります。またこのような引き分けの類が多くあった当時の取組結果の記述では、この他に「痛預」もあったという情報もあります。
・休場数の扱いと「や(ヤ・休)」・「-」・「?」・空白の区別
 星取表における「や(資料によってはカタカナの「ヤ」、あるいは古い資料だと漢字の「休」を使う例が多い)」は「休場」を示すとともに、幕下以下の「取組なし」も示します。近年ではネットのページ等で、「や」を休場のみに用い、幕下以下の「取組なし」には「-」を使うことで区別している例もあり、日本相撲協会のHPも最近までその「や・-」方式でした。相撲レファレンスはドイツ人のサイトなので、休場・取組なしとも「-」です。
 関取の休場数は「や」を数えるだけでいいのですが、幕下以下の休場数は「や」の数ではなく7番のうち何番分を休場しているかによって判断せねばならないため、例えば2024年11月場所の東三段目34枚目(このサイトの範囲外)の隠岐の浜は「や」方式で「○やや○や○や●や■ややややや」、「や・-」方式で「○--○-○-●-■ややややや」となり3勝2敗2休で、「や・-」方式の方が休場期間はわかりやすいと思いますが、それでも「や」は5つありますが2番分なので2休となります。
 しかし、日本相撲協会のHPは最近伝統的な?「や」方式に変わったようです。実際、2024年11月場所の東幕下3枚目の上戸は、「や●●■ややや○●や○や●や○」(3勝5敗・8番相撲)でした。これは本来なら5日目・6日目のいずれかに組まれるはずの3番相撲が対十両戦で4日目に組まれ、そこで休場届を提出して不戦敗となりましたが、中日の4番相撲から出場して休場数が付かなかった形です。これは「や・-」方式なら僕なら「-●●■---○●-○-●-○」と書きます。もし仮に4番相撲からずっと休場して「や●●■ややややややややややや」(0勝3敗4休)となれば、「や・-」方式なら僕なら7日目・8日目のいずれかが4番相撲が本来組まれるべき日なので「-●●■--ややややややややや」と書くところですが、このように幕下上位や序ノ口下位でその区別が曖昧な星取が出るからなのでしょう。幕下上位や序ノ口下位で調整のため休場を含む者が最終3日間に2番取った場合、「や・-」方式での「や」の番数分より公式成績の休場数が1つ少ないことも起こり得ます。
 幕下以下の休場・取組なしの扱いについては、休場数に関しては大相撲.jpの方式が一番わかりやすいでしょう。大相撲.jpの方式は、関取の休場は「ヤ」とし、幕下以下は取組なしを空欄として休場は13日目までの奇数日のみに「ヤ」を付ける方式としています。   
 で、古い時代の相撲レファレンスにおける休場数の扱いですが、幕内は宝暦時代から休場数を表示しているのに対し、番付の一部しか登録されていない昭和9年(1934年)1月場所までの幕下以下や、大正までの十両では休場数は表示していないようです。
 このサイトでは休みの定義がはっきりする昭和3年(1928年)以降について休みの日数(幕下は何番分休んだか)を表示しており、「究極の大相撲データベース」構想だとそれに準ずることになりそうかと思います。
 そして、このサイトの昭和3年(1928年)3月場所の幕下星取表及び大坂相撲の星取表の一部には不明部分を表す「?」があり、これは「究極の大相撲データベース」構想だと当然表示上の勝敗数等にも休場数にも含まれないことになります。江戸時代の明和6年(1769年)4月場所の7日目も勝敗記録が現存せず不明とされていますね。
 あと、相撲レファレンス・大相撲.jpの両データベースとも、1場所の日数が15日より短かった時代は、星の並びが登録されている場合、15日分用意されている星取表のスペースのうち最終日より後の部分を空白としています。この空白は、後述の相撲レファレンスの中学生力士の3番相撲等のデータにもあります。
・取組情報・取組順について
 取組情報は、相撲レファレンス・大相撲.jpの両データベースとも、明治42年(1909年)6月場所からの登録となっており、それ以前は登録されていません。ただ、大相撲.jpの方は、それ以前についても星取表の対戦相手情報は登録されています。
 また取組順についてですが、X(旧Twitter)によれば、相撲レファレンスの取組順について、昭和期やそれ以前の取組順がほぼ全場所不正確で誤りが多いことが指摘されており、一方大相撲.jpの方式は、大正期を見ても幕内の取組順が中入前と中入後のそれぞれで横綱・大関の取組があるような順番となっていました。
 古い時代の取組順まで正確に再現しようとすると、当時の勝負付や新聞などが必要ですね。取組順が不明な場合はその旨をコメント等で示せばよいかと。
・優勝決定戦の扱い
 優勝決定戦は、本割ではないため、通算成績には含まれません。相撲レファレンスでは優勝決定戦は、便宜上「16日目」として扱い、取組表で見ることができるほか、星の並びには含まれなくても力士の場所の成績表示の下の欄で見ることができます。対して大相撲.jpでは、千秋楽の取組表でのみ優勝決定戦の取組・結果を見ることができます。データベース構築ではどう表示させるかですね。
・星の並びがなく勝敗等の数のみのデータの扱い
 相撲レファレンスでは、明治42年(1909年)1月場所までの番付の全力士や、昭和41年(1966年)9月場所までの幕下16枚目以下の大部分が、星の並びがなく勝敗等の数のみのデータとして登録されています。対して大相撲.jpを見ると、昭和41年(1966年)9月場所までの幕下16枚目以下の大部分の星の並びのないデータは、0勝0敗扱いとなっています。「究極の大相撲データベース」を目標にデータベースを構築するなら、暫定的な措置として「星の並びがなく勝敗等の数のみのデータ」も入れられるようにしておきたいと思います。
・1日に2番以上取った力士の扱い
 番付掲載力士は、本場所では1日に1番しか取らないのは当たり前のように思われていますが、古い星取表だと、明和6年(1769年)10月場所の二段目、明治40年(1907年)1月場所の十両、そして大坂相撲も含めるならば明治45年(1912年)1月場所の十両などのように、1日に2番取った力士がいた場所もあります。相撲レファレンスと大相撲.jpの両者とも、大坂相撲の番付はもちろん取り扱っていませんので、この3場所のうち大坂相撲以外の2場所のデータを見ると、相撲レファレンスでは明治42年(1909年)1月場所までの星の並びは一切登録されていないのに対し、大相撲.jpでは、1日に2番取った力士の1番目は本来の日の欄に、2番目は最終日の次の日の欄に登録されています。あと、現代でも前相撲では1日に2番以上取る力士もいます。
・江戸時代の五人掛けの扱い
 明治以降現代までの本場所では見られませんが、江戸時代には本場所で五人掛けが行われた例もありました。その両データベースでの扱いはというと、まず相撲レファレンスでは江戸時代の成績は勝敗数等の情報のみで星の並びや対戦相手の情報はなく、「五人掛」が実際にはそういう名前の力士ではないものの、疑似的に?力士データとして登録されています。対して大相撲.jpでは江戸時代でも星の並びや対戦相手の情報は登録されていますが、五人掛けの場合は対戦相手は空欄となっています。
・幕下以下が別日程になった場所の扱い
 大正12年(1923年)1月場所に三河島事件のため幕下以下の取組が前倒しで7日間行われ、本場所再開後に残りの3番が行われたのと、戦争末期の昭和19年(1944年)5月場所・11月場所、昭和20年(1944年)6月場所に幕下以下の取組が別日程・別の場所で5日間行われた例がこれに当たります。
 「1日に2番以上取った場合」・「江戸時代の五人掛け」・「幕下以下別日程(特に幕下上位での対十両戦が絡んできた場合)」、この3点は究極の大相撲データベースを目標に構築する上でまともに取り扱おうとすると、特殊な処理が必要となりそうですね。
・中学生力士の3番相撲等の扱い
 昭和46年(1971年)11月場所中日、中学生力士が4番相撲を終わった段階で帰京させられ、以降は中学生力士の新規入門禁止、既に採用している中学生力士は卒業まで東京場所の日曜のみの出場で3番相撲となり、地方場所は番付維持の全休となりました。
 中学生力士の帰京場所と3番相撲は、15日間でありながら関取(15番)とも通常の幕下以下(7番)とも異なるタイプの特殊な星取表となり、前述の「や」方式と「や・-」方式で表してみると、帰京場所の昭和46年(1971年)11月場所の琴風(東序二段97枚目)は「や●や〇〇や〇やややややややや」「-●-〇〇-〇--------」、昭和47年(1972年)1月場所の琴風(西序二段59枚目)は「●やややややや〇やややややや●」「●------〇------●」とでもなるところだと思います。それで既存のデータベースでの扱いはというと、中学生力士の帰京場所は両データベースとも9日目以降空白となっていますが、それ以降の卒業までの3番相撲は相撲レファレンスでは例えば昭和47年(1972年)1月場所の琴風(西序二段59枚目)を例に取れば「●-    -〇    --●」(空白と「-」の入った形、幕下以下7番取組制の1番・4番・7番相撲本来組まれるべき日に合わせたのだろう)となっているのに対し、大相撲.jpではその空白を詰めたためか、「●  〇  ●        」と初日・4日目・7日目の欄に入った形となっています。

【その他】
・大坂相撲・京都相撲の扱い
 大坂相撲については、このサイトでも不明部分を含む星取表もあるとはいえ、ある程度のレベルの星取は判明しており、究極の大相撲データベースを目指すなら江戸・東京相撲・現代の大相撲に準ずる形式で組み込むこともできると思います。対して京都相撲は断片的にしか記録が残っていないようで、銀河大角力協会のサイトの優勝力士一覧も半分以下しか埋まっていない有様です。ただ、既存の両データベースとも、歴代横綱の大木戸と大錦大五郎以外にも、大坂相撲にしか所属していなかった力士が年寄名跡の襲名者を示すためだけにデータ登録されてはいます。

 そして、「究極の大相撲データベース」ができたとしたら、例えば珍名力士で、「い」「イ」(いずれも読みは「かながしら」)の力士は大坂相撲も含めて最低でも以下の4人が登録されることになりますね。「#」は相撲レファレンス風で、正確な読みが不明なための推定(あるいは便宜的な読み)を示します。既存の両データベースでは1人も登録されていませんが。
「イ 吉三(かながしら よしぞう#)」・「い 多理(かながしら たり#)」・「い 一(かながしら はじめ)」(「イ 一」表記もあり)・「い 助治郎(かながしら すけじろう)」
更に、「三毛猫 泣太郎(みけねこ なきたろう)」とか「豆鉄砲 芳太郎(まめでっぽう よしたろう)」「蟻ノ子 藤太郎(ありのこ とうたろう)」、更に大坂相撲だと「三ツ△ 鶴吉(みつうろこ つるきち)」「ヒーロー 市松(ひーろー いちまつ)」とかも登録されているのを想像します。ただ明治前半の最高位序二段や序ノ口の力士、「三ツ△ 鶴吉」「ヒーロー 市松」の場合は明治の見習なので、勝敗記録の現存は期待できないので各場所の成績・通算成績は「0勝0敗」扱いとか。
 もう少し有名なところでは、「器械舟 源吾(きかいふね げんご)」・「電気燈 光之介(でんきとう こうのすけ)」・「片福面 大五郎(かたおかめ だいごろう)」の、いわば「明治・珍名・初切・関取目前」トリオや、華吹以前に50代で勝ち越した最高位幕下の「若木野 金介(わかきの きんすけ)」も相撲レファレンスに未登録です。ただ器械舟と電気燈は大相撲.jpに登録されていますが。
 最後におまけとして、珍名というほどでもありませんが、両データベースに未登録の力士ということで、小島貞二コレクションでいくつか目に留まった明治~昭和初期の下位力士の四股名を紹介して終わりにします。
「枳 鉄五郎(からたち てつごろう)」「入汐 正吉(いりしお  しょうきち#)」「磊 千代枩(さざれいし# ちよまつ)」「夕暮 正五郎(ゆうぐれ しょうごろう)」「乙女石 浅吉(おとめいし# あさきち)」「太閤山 政二郎(たいこうやま せいじろう)」「糸魚川 宏(いといがわ ひろし)」「安藝ヶ嶽 藝州男(あきがたけ げいしゅうお#)」
2:gans@作成者 :

2025/01/02 (Thu) 16:35:58

素晴らしいと思います。
完成された暁には、ぜひ見せて下さい。
楽しみにしています。
3:ビスタカー :

2025/01/04 (Sat) 00:15:04

この「究極の大相撲データベース」構想は、「相撲レファレンス」「大相撲.jp」の既存の両データベースの現状の問題点などを掘り下げた上で勝手に想像しただけのもので、僕自身が一人で個人で構築するようなつもりは全然ありません。実際にやるとなればそれこそ一大プロジェクトとなりそうですし、江戸時代で相撲起顕にない時代の勝負付とか相撲博物館にしかないような情報とかもあると思います。そういうプロジェクトがどこかにあってもいいような気もしますが。

ただ、小島貞二コレクションの相撲番付の実物のうち、江戸時代のものについてはテキストへの翻刻の作業が終了しています。

ちなみに、江戸相撲の現存最古とされる宝暦7年10月場所の番付(テキスト翻刻)で、「四股名・番付原本の不明部分の扱い」で述べた、四股名「**」(判読不能2文字だけ)のケースが西五段目(現代風に言えば序ノ口)16枚目にありました。他にもいくつか番付翻刻の例を見てみます。


宝暦7年(1757年)10月場所

五段目(現代風に言えば序ノ口)
東         西
亀割 定五郎  13 武蔵野 沢右衛門
中見山 藤八  14 袖ノ浦 勝五郎
稲荷山 又市  15 藤戸川 久治
霊国山 庄五郎 16 ** 雁右衛門
        17 三上山 太七
        18 水川棹 滝右衛門
        19 碧林 源助

本中(番付レイアウト上六段目)
東         西
若波 新介   16 綾瀬川 長介
田子浦 安五郎 17 袖ノ浦 長右衛門
天神山 権八  18 むさし川 弥五郎
        19 **浦 **門

宝暦8年(1758年)10月場所

前相撲(番付レイアウト上八段目、六・七段目は中相撲)
宮木山 浦右衛門 13 早川 勝蔵
*川 定右衛門  14 小里山 銀蔵
小柳 平七    15 霞** *太郎
磯ノ浦 浜之助  16 浅世川 段吉
白嶽 新七    17 荒駒 喜十郎


あと、既存の両データベースの現状についてもう少し見ていきます。

相撲レファレンスの幕下以下の現時点での登録状況は次のようになっています。
優勝力士・一部の後の幕内経験者等のみ登録:明治42年(1909年)6月場所~
序ノ口までの番付及び勝敗等の数が完全登録:昭和9年(1934年)5月場所~(この場所から相撲協会が各場所後に発行する星取表が全力士掲載)
星の並びが完全登録:昭和41年(1966年)11月場所~(それ以前の幕下16枚目以下の大部分は、相撲レファレンスでは「星の並びがなく勝敗等の数のみのデータ」として登録されているが、前に投稿したようにそれに相当する部分は「大相撲.jp」では「0勝0敗」扱い)
取組(対戦相手情報)が全力士完全に登録されており、なおかつそれが現在まで連続的に登録:平成元年(1989年)1月場所~(それ以前も飛び飛びではあるが取組(対戦相手情報)が全力士完全に登録されている場所がある)
決まり手情報まで完全登録:平成3年(1991年)7月場所

また、大相撲.jpでは、明治42年(1909年)6月場所~昭和9年(1934年)1月場所の幕下の筆頭~15枚目は、このサイトの星取表を参照しているようで、大半が埋まっていますが、関取経験も対十両戦経験もない力士が未登録となっているようです。
4:西の関 :

2025/01/06 (Mon) 11:46:09

以前、相撲博物館に相撲起顕以前の勝負付をコピーしてもらえないか頼んでみたことがあります。最初は担当者の方に快諾していただき、近日中に発送しますのでお待ちくださいというところまで話が進んだのですが、上から圧力でもあったものか、ある日電話が掛かって来て、一転拒否の返事に変わりました。
担当者の言うには、将来に残るプロジェクト等なら協力できるが、個人が趣味で閲覧するというのでは許可できないということでした。なんか噓くさい言い訳だとも思ったんですが、もしもそれが本当ならば、「究極の大相撲データベース」構想が現実に動き出せば、そしてその進捗状況をネットで示すことができたりすれば、当然見せてもらえるはずですよね。

当方、戦後の「相撲」誌の昭和24年の復刊第1号から63年12月号まで、○○引退記念号等の特殊な増刊以外は全冊所持しています。
幕下以下全力士対戦相手つき星取表は27年春場所以降、幕内全取組土俵観戦記は29年初場所以降(それ以前は好取組のみ)掲載されています。

「究極の大相撲データベース」プロジェクトに必要なものがあれば可能な範囲で協力したいと思います。
5:ビスタカー :

2025/01/11 (Sat) 02:11:46

「究極の大相撲データベース」構想の上での参考ということで、特殊星取の例をまとめてみます。

・特殊星取の例:「1日に2番以上取った力士の扱い」関連

[江戸時代]
明和5年(1768年)9月場所:東二段目5枚目 秋津川 ○[○●]●●●●●●
明和6年(1769年)10月場所:東二段目9枚目 雁股 ●●●○●[○●]○●

[明治時代]
明治40年(1907年)5月場所:東十両筆頭 千年川 ○○●○○[×○]×○○や
明治40年(1907年)5月場所:西十両2枚目 利根川 ○●○×●[△●]●や○○

[明治時代・大坂相撲]
大坂相撲明治43年(1910年)1月場所:東十両筆頭 加州山 ●●○△△●[●○]○○△
大坂相撲明治45年(1912年)5月場所:西前頭12枚目 源氏山 や○●○○○△●[○○]○

[現代の前相撲]
前相撲の結果は、雑誌には載りますが、正規の記録としては扱われず、1日に2番以上取る場合もあることもあり、番付掲載力士と同様の形式で星取表が書かれることはあまりありませんが、仮に番付掲載力士と同様の形式で書いたらこうなると思います。
平成28年(2016年)11月場所:前相撲 鳴滝 --[○○○]------------
平成30年(2018年)1月場所:前相撲 福湊 --○[●●]●[●●][○○]--------
令和5年(2023年)5月場所:前相撲 雷輝勝 --○[●●]○[●○]---------
令和6年(2024年)7月場所:前相撲 古田 --○●●[○●]---------

・特殊星取の例:「江戸時代の五人掛けの扱い」関連

安永8年(1779年)10月場所:東小結 風師山 や○×○●○○●ム○
対戦相手記述(相撲レファレンス風)
2日目 ○ 三千ノ川
3日目 × 外ヶ濱
4日目 ○ 宮城野
5日目 ● 稲川
6日目 ○ 永濱
7日目 ○ 越ノ海
8日目 ● 谷風
9日目 ム 外ヶ濱
10日目 ○ 出羽海
10日目 ○ 日出山
10日目 ○ 江戸崎
10日目 ○ 雄山
10日目 ○ 真鶴

・特殊星取の例:「幕下以下が別日程になった場所の扱い」関連

大正12年(1923年)1月場所:西幕下7枚目 朝日岩 ○○●○●○○/○●○(本場所再開後1番目は何日目かネット上に情報がないので、本場所再開後は仮に何日目かを無視して星のみを示す)
本場所再開後2番目・4日目 ● 佐賀ノ山
本場所再開後3番目・5日目 ○ 長良川

昭和19年(1944年)11月場所:東幕下筆頭 和歌ノ海 ○●○○○/--○---●---
対十両戦1番目・関取日程3日目 ○ 小戸ヶ岩
対十両戦2番目・関取日程7日目 ● 双子岩

昭和20年(1945年)6月場所:東幕下筆頭 佐田岬 ●●●○○/--○---
対十両戦1番目・関取日程3日目 ○ 矢留石

以上の特殊星取では、1日に2番以上取った場合は角カッコで示し、別日程は斜線で区切ってみました。

あと、両データベースの関連データも紹介しようと思ったのですが、NGワードに抵触してしまいましたので省略しました。

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.