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大正初期の十両力士で御教示を よしき

2018/06/09 (Sat) 19:40:00

いつも力士の歴史を調べる際のバイブルとして活用させていただいています。
 そんな素人でも御教示いただけそうな掲示板だと思い、大正時代初期の十両力士で御教示いただきたい2点が。

一つ目が「二ツ引と八幡山」
二つ目が「能登ヶ嶽と谷ノ海」
それぞれ別人なのか、それとも同一人なのでしょうか。


一つ目は、明治45年1月新十両の二ツ引。
「93年大相撲観戦ガイド」という本で、保田武宏氏調査の「十両以下優勝力士」の明治42年6月三段目優勝・二ツ引の改名欄に(八幡山)とあります。
 また元・太刀光の「大正時代の大相撲」でも大正5年1月の新十両で八幡山が載っておりません。
 これは大正5年1月新十両の八幡山と同一人でしょうか?
 番付でも大正4年1月~7年1月は八幡山が載り二ツ引はおらず、交代のように3年5月までと7年5月からは八幡山がおらず、二ツ引が載っておりました。
 ただ、掲載されていた本が20年以上前の物なので、現在でも同一人なのかと思いましたもので。


二つ目ですが、こちらは書籍等の裏付けもない全く素人として掲示板にて御教示いただける方がおればと思いますが、同じく明治45年1月新十両の能登ヶ嶽長吉。
翌5月場所番付から消えていますが、代わるように東幕下5に谷ノ海長吉が登場しています。
 「大正時代の大相撲」では大正3年1月新十両谷ノ海とありますので別人という事でしょうが、明治45年1月と5月の幕下番付を見ますと「長吉」では、松井川長吉(東下11と同10)、真砂石長吉(東下27と西下17)は両場所にありますが、能登ヶ嶽長吉は5月から消え 谷ノ海長吉は1月の幕下と三段目におらず5月に幕下上位に突然登場しますが、これは改名か大阪から登場したのでしょうか?





Re: 大正初期の十両力士で御教示を - やまびこ勘太郎

2018/06/10 (Sun) 09:38:51

横から失礼します。
どちらも、同一人物のようです。私が個人的に作っている資料ではどちらも同一人になっていて、その根拠は、以前『相撲』誌に連載されていた小池謙一氏の「年寄名跡の代々」だったと思います(個人的な資料なので出典がイマイチはっきりしない)。
今、雑誌が手許にないので、その記事を確認できないし何年何月号と指摘できないんですが、二ツ引→八幡山は雷→田子ノ浦→立浪部屋ですし、能登ヶ嶽→谷ノ海(さらに大正3年5月十両の扇海も同一人とのこと)は熊ヶ谷部屋なので、その名跡の解説記事に記載されていたと思います。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を よしき

2018/06/10 (Sun) 18:18:48

やまびこ勘太郎様 
御教示頂きありがとうございます。
やはり同一人物でしたか。

大正以前の十両力士となると情報が少なく、このサイト等を参考にさせて頂いています。
 やまびこ勘太郎様より、情報を頂きました小池謙一氏の「年寄名跡の代々」は言われてみれば確かに連載途中から弟子情報も詳細だった記憶があります。
ありがとうございます。

「年寄名跡の代々」は大変な労作だと思います。ただ十数年に渡る連載で押入から探すのも一苦労。何らかの形で纏まった物が出来たらと思いますが、出版となると難しいのでしょうね。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 紅葉橋律乃介

2018/06/11 (Mon) 13:40:08

・二ツ引
「年寄名跡の代々」85回「田子ノ浦代々の巻(下)」に9代目鬼ケ谷の弟子として、下記記載がありました。
------------------
十両・二ツ引与三郎(雷部屋より移籍、一時養子にする、明治45年1月十両、十両2、のち一時八幡山鉄夫、晩年は立浪…部屋預かり、大正9年12月23日現役没)
------------------

・能登ケ嶽
「年寄名跡の代々」149回「熊ケ谷代々の巻(下)」に8代目荒玉の弟子として、下記記載がありました。
------------------
十両・能登ケ嶽長吉(明治45年1月十両、のち谷ノ海→扇海、十両7)
------------------


わたしも気付いておりませんでしたが、結構見落としがありそうですね。

Re: - gans@作成者

2018/06/13 (Wed) 01:24:40

いつも、大変詳しい方がいて下さって頼もしい限りです。
そういう事になると、新十両のマークが重複になるので
近々修正したいと思います。
教えて頂き、ありがとうございます(・ω・)ノ

Re: - gans@作成者

2018/06/13 (Wed) 01:27:50

年寄名跡の代々、本当に素晴らしい連載で
個人的には全部コピーして名跡の五十音順に並べて
綴じたりしているのですが、ぜひ単行本化してほしいですよね。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を よしき

2018/06/16 (Sat) 18:15:05

こちらの掲示板の皆様の知識や情報量は改めて凄いと思いました。
「教えて、教えて」のようになり恐縮なのですが、先の能登ヶ嶽の件が気に止まったのは
『相撲』平成元年6月号の「特別企画・十両制度100年」という特集内に「十両1場所で陥落の力士」という表に能登ヶ嶽が載っていなかったから「再十両があったのかな?」というのが きっかけでした。

その表の中で明治・大正期に「地位・番付外」という力士、つまり番付面では十両として載らなかった力士が下記7名おりました。

明治32年1月 御坂山
明治37年5月 諏訪山
明治44年2月 浦島
明治45年1月 絹ノ里
大正 2年1月 玉手潟
大正 4年1月 若ノ竹
大正13年1月 勇龍

この内、御坂山・諏訪山・若ノ竹は こちらでも掲載されているので確証いたしましたが、
残る浦島・絹ノ里・玉手潟・勇龍は「日本相撲史」星取表にもありません。

「日本相撲史」は50年以上前の本で誤りや新事実もあり、『相撲』の方も30年前の記事ですが、4名も十両格で取ったという事でしょうか?

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 田口茂

2018/06/18 (Mon) 18:42:23

「読売大相撲」 昭和41年4月号98ページに「1場所限りの十両一覧表」が載っています。

そこには4力士の内、浦島(後の磯風)、玉手潟、勇龍の名があります。
絹ノ里の名がありませんでしたが、見落としかと思われます。明治45年1月場所、十両の大碇、勝田嶽の星取りを見ると、対戦相手の中に絹 ノ里の名が見られます。
翌場所の幕下の番付で絹ノ里の名を探しましたがありませんでした。。
おそらく先の3力士と同様に絹ノ里は1場所限りの十両に該当すると思われます。
記事によると、当時明治の末期から大正の初めにかけて、大阪や京都から東京への加盟力士が多く、その何人かは幕内付け出しや十両付け出しで土俵に上がったということです。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - やまびこ勘太郎 URL

2018/06/19 (Tue) 22:22:27

「特別企画・十両制度100年」というのは知りませんでした。あとで私も見てみようと思います。

お尋ねの4人が十両格だったかどうか、私にも正確にはわかりませんが、確認できた情報を書いておきます。

浦島
『大相撲人物大事典』大阪相撲幕内一覧の大正4年1月入幕亀鶴山のところに「前東京十両・浦島」とあります。例の「年寄名跡の代々」によれば東京では浦風部屋だったようです。この力士について、私は以前に相撲博物館に明治42年2月場所の成績を照会したことがあり、次のとおり回答がありました。
初○夏島
2や
3●佐倉川
4や
5●山田川
6●尼ケ崎
7や
8や
9や
10○柏山

勇龍
同じく『大相撲人物大事典』大阪幕内一覧の大正10年6月入幕海山のところに「東京十両・勇龍」とあります。「年寄名跡の代々」でも、東京の中立部屋、大阪の朝日山部屋の回において、大阪から東京相撲に行き海山から勇龍と改め1場所だけ十両格番付外で出場したとあります。

(前回も書いたとおり、「年寄名跡の代々」が掲載されている雑誌の原本は今確認できません。私はこの連載の要約ノートを作っているので、それを見ながらこれを書いています)

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 紅葉橋律乃介 URL

2018/06/19 (Tue) 23:13:26

>よしきさん
「『相撲』平成元年6月号の「特別企画・十両制度100年」」には部屋名や在位場所は記載されているんでしょうか。

「1場所限りの十両一覧表」ともども未見ですが、「大相撲」誌は閲覧できそうもありません。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を よしき

2018/06/20 (Wed) 00:16:45

皆様いろいろ御教示いただきありがとうございます。

>やまびこ勘太郎様
『大相撲人物大事典』での確認を怠っておりました。
ありがとうございます。

>紅葉橋律乃介様
部屋名は載っていませんでした。
力士名・場所・地位のみでした。
『浦島 明治44.2 番付外』のような感じで、
その表で最新の廃業した力士ですと
『清乃洋 昭和63.3 西13』という表です。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 田口茂

2018/06/21 (Thu) 12:35:26

>やまびこ勘太郎様

浦島 明治42年2月→明治44年2月 です。
なお浦島の3日目の相手が佐倉川になっていますが 「日本相撲史」では桜川になっています。ここのサイトは櫻川。


それによると浦島は5番取って十両と3番、幕下と2番。あとの「日本相撲史」に載っていない3人、絹ノ里、玉手潟、勇龍は調べてみると2番しか十両と取ってない。
何で「日本相撲史」で名が抜けてるのかわかりませんが、 いずれにしろ彼らの星取りを作るのは大変です。
彼らの対戦相手から見ると「幕下筆頭格付け出し」が妥当だと思われますが、今となっては不明です。
それと先の4人の内絹ノ里以外の3人は、そのまま東京相撲に残りましたが、番付にない絹ノ里は不明。謎の力士です。改名したかも不明。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - やまびこ勘太郎 URL

2018/06/21 (Thu) 22:06:21

>田口茂様

本場所の時期の件はご指摘のとおりです。たいへん失礼しました。

「佐倉川」の表記は、相撲博物館からの回答にそのように書いてありました。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 紅葉橋律乃介 URL

2018/06/22 (Fri) 01:19:04

再度「年寄名跡の代々」を引っ張り出してみました。


・明治44年2月 浦島
32回「高田川代々の巻」に、2代目橋本政吉の弟子として下記記載あり。
------------------
亀鶴山冨五郎(4年1月入幕、のち嵐山、前頭2) 
------------------

219回「浦風代々の巻(5)」に、9代目小松山の弟子として下記記載あり。
------------------
十両・浦島幸三郎(大阪・2代高田川より、明治44年2月十両格番付外付け出し。のち大阪幕内・亀鶴山富五郎→嵐山)
------------------


・明治45年1月 絹ノ里
不明


・大正 2年1月 玉手潟
142回「雷代々の巻(5)」に、10代目梅ケ谷の弟子として下記記載あり。
------------------
玉手潟伊平(大正2年1月のみ十両付け出し)
------------------


・大正13年1月 勇龍
118回「中立代々の巻(下)」に、5代目司天龍の弟子として下記記載あり。
------------------
また、大阪相撲の朝日山部屋(元大関・二瀬川)から移籍してきた元大阪幕内・海山改め勇龍政五郎が大正13年1月に1場所だけ十両格番付外に付け出されている。
------------------

127回「朝日山代々の巻(4)」に、13代二タ瀬川の弟子として下記記載あり。
------------------
海山政五郎(10年6月入幕、前頭3.のち東京・中立部屋で勇龍の四股名で十両付け出し)
------------------


玉手潟はのちに若者頭を務めていますが、十両経験があったのですね。
絹ノ里はもしかすると全部の回を読み直すと1行くらい書いているかも知れませんが、なかなか読み直す時間がありません。

当時の星取表に載っていないんですかね…。

Re: - gans@作成者

2018/06/22 (Fri) 23:08:12

絹ノ里は明治44年春に東幕下12枚目で3勝2敗、夏は西10枚目で3勝2敗。
翌45年春は十両の大幅な定員増があり新十両力士が多く出ましたが、この直前に脱退、そしてすぐに出戻りという感じだったのでしょうか。
44年夏場所の幕下を見ると、西11枚目で4勝1敗の苅藻川→十両5枚目、東12枚目で3勝2敗の玉ヶ崎→十両14枚目、西12枚目で4勝0敗1預の藤渡→十両6枚目、西14枚目で3勝2敗の黒雲→幕下2枚目とそれぞれ大きく昇進しているので、普通にしていれば新十両として番付に載っていた可能性も高かったように思えます。
そして45年春の絹ノ里は、
○雷ヶ浦

●常陸嶽

○大淀

●真龍

●勝田嶽

2勝3敗
翌場所、絹ノ里は幸福山(こうふくざん)と改名。45年夏の幸福山は西幕下7枚目で1勝3敗1預。

以上が手元の新聞記事を見たところの経緯です。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 田口茂

2018/06/23 (Sat) 18:08:26

絹ノ里は東京相撲の力士でしたか。気づきませんでした。「○○格付け出し」と聞くと、初めて土俵に上がる力士がイメージされます。それでてっきり関西から来た力士と思い込んでしまいました。

調べてみると絹ノ里連吉は、明治41年1月から幕下にて名前が出てきます。45年5月幸福山連吉と改名。さらに大正2年1月越辺川連吉と改名。3年1月限りで姿を消しています。
(幸福山と越辺川は同じ連吉なので、同一人物とみなしました。確証はありません)

さて明治45年1月の絹ノ里ですが、ご教示いただいた対戦相手の地位は次のようになっています。

初日 常ケ浦 (西幕下9枚目)
三日目常陸嶽 (東幕下5枚目)
五日目大 碇 (西十両9枚目)
七日目真 龍(東幕下13枚目)
九日目勝田嶽(東十両9枚目)

絹ノ里は場所直前に脱走すぐに出戻ったということですが、そうした力士に協会は十両格で取らせるでしょうか?
そうした疑問が浮かびました。
対戦相手の地位から考えると、先場所と同じ地位で取ったと考えられないでしょうか。ちなみに44年5月は西10枚目。
それでは何で十両力士と当てられたのか?
他の十両力士の星取りの内容を見ると、結構幕下力士と当てられていたことがわかりました。この場所から十両の人数が20人から30人に増えたのにも関わらずです。

この場所番付外で相撲を取った立汐も東京相撲の力士。
「大相撲力士名鑑」によると明治44年5月、5勝1引き分けと好成績を挙げたものの、場所後にトラブルを起こして大阪相撲に加入。すぐ復帰して4勝1引き分けの好成績を挙げ翌場所幕内に昇進。
ですから前述の絹ノ里と立汐。同じ「十両格付け出し」というのには無理があるのではないか、というのが私の個人的見解です。

もし、絹ノ里の脱走がなければ新十両になっていたと思われます。似たような地位で、似たような成績の玉ケ崎が新十両になっているので。

(「大相撲」誌、「1場所限りの十両」三谷光司調べ、では絹ノ里はリストから外されています)

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 紅葉橋律乃介 URL

2018/06/23 (Sat) 20:17:22

やっと「相撲」平成元年6月号の当該企画を読んできました。5ページも割いている大型企画だったんですね。

140ページの「表8 十両1場所で陥落の力士」に確かに「地位:番付外」で7名載っています。
<おやっ?>と思ったのは、絹ノ里以外は各場所1名なので分かりませんが、明治45年1月は“1場所十両”が3名もいます。
------------------
力士名 地位

藤渡  東6
絹ノ里 番付外
江戸桜 西15
------------------

複数名いる場所は地位順に並べられているため、筆者の浦和山人氏は絹ノ里は江戸桜よりも上位と見ていることが分かります。
幕下格どころか、十両最下位格でもなかった? ようです。


ちなみに、昭和41年と平成元年では20年以上も空いていますから、新発見という可能性もあります。基本的には新しい方の資料を「正」としたいところです。

また、大正13年1月の勇龍は全休とのことで、ここまでのやり取りで星取が判明していないのは玉手潟のみとなりました。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - やまびこ勘太郎 URL

2018/06/24 (Sun) 08:53:43

勇龍なんですが、田口茂さんも書いておられますが、当サイトの大正13年春場所のところを見ると、外ヶ濱、吉野山と対戦していて、全休ではないようです。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 紅葉橋律乃介 URL

2018/06/24 (Sun) 12:16:37

失礼しました。確かに十両と勇龍と当たっていますね。西筆頭の外ケ濱・西4の兼六山・西15の吉野山と対戦し、勇龍は0勝3敗と全く歯が立ちません。
大阪力士の“ゲスト出場”というところでしょうか。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 田口茂

2018/06/24 (Sun) 14:00:49

大正2年1月の玉手潟も、東2の有明、東10の釈迦ヶ嶽、西11の松井川の3人の十両力士と対戦しています。0勝3敗。やはり荷が重かったようです。
前述の関西から来た浦島、若ノ竹、勇龍を含む4人は、その後東京相撲に残留しましたが、ふたたび十両にあがることはありませんでした。
全部の星取りが判明しないのは玉手潟、勇龍の二人。

何で、「日本相撲史」で彼らの星取りが抜けているのかわかりません。スペースはあります。改訂版で載せてくれればいいのですが。

こうして見てみると江戸時代は、結構ぬけているのがあるのではないでしょうか。
番付外の力士が、はたしてどのへんの地位でとったのか、好角家、研究者は、いつも悩まされる問題です。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - しろしたかれい URL

2018/06/25 (Mon) 23:14:22

絹ノ里の取組順を萬朝報で検証してみました。

初日
常陸嶽(東下5) 荒角(西下1)
絹ノ里 雷ケ浦(西下9)
岩木山(東十11) 大淀(西十9)
三日目
宇都宮(東下3) 錦岩(西下10)
絹ノ里 常陸嶽(東下5)
小金石(東下6) 江戸桜(西十15)
五日目
勝田嶽(東十9) 玉ノ川(西十10)
絹ノ里 大淀(西十9)
太刀ノ音(東十8) 日本海(西十11)
七日目
八ツ房(東下9) 黒雲(西下2)
絹ノ里 真竜(東下13)
二ツ引(東十10) 立登(西下12)
九日目
二ツ引(東十10) 江戸桜(西十15)
勝田嶽(東十9) 絹ノ里
太刀ノ音(東十8) 玉ケ崎(西十14)

これから見ると絹ノ里は西十15より下で西下1より上なので十両尻もしくは幕下筆頭格ですね。
五日目の取組順がおかしいですが取組表・勝負結果ともこの順になってます。

Re: 大正初期の十両力士で御教示を - 田口茂

2018/06/26 (Tue) 17:13:39

関西から来た力士ならいざ知らず、東京相撲の立汐、絹ノ里がいきなり番付外とは解せません。
場所後に番付編成会議。次の場所の1週間前あたりに番付発表ですから、彼らの名前がなくなるというわけはありません。脱走してすぐに出戻りだとしてもです。
脱走が明らかになった時点で、名前を消したということでしょうか。
場所後の番付編成会議の時点では彼らの名前はあったはず。
当時は年2場所なので充分間隔があり、いくらでも細工ができたということでしょうか。
もし番付が完成寸前だったら、どうやって名前を消したのか。

通常は番付編成会議の前に引退届けを出さない限り、次の場所は名前が載ります。

最近の番付が消された例は強制引退の朝青龍。場所後の番付編成会議では名前はあったが、事件が発覚したら抹消された。
八百長が発覚した力士も次の場所は空欄でした。

Re: - gans@作成者

2018/07/01 (Sun) 14:03:34

色々とご意見ありがとうございます(・ω・)ノ
取組順から言っても、かれいさんご指摘のように十両尻または幕下筆頭格のようですね。
1場所十両として名前が載っている資料、載ってない資料があるようで、微妙ですが、ひとまずここは十両尻格として考えようと思います。
他の番付外力士も含め、星取表への追記作業に入りたいと思います。

大正13年春・勇龍




●吉野山

●外ヶ濱

●兼六山

0勝3敗(幕下とは対戦なし)

大正2年春・玉手潟
○早高

●釈迦ヶ嶽

●松井川

●甲州

●有明
1勝4敗(初日に房州山より前に取組んでいるので、十両尻格か)

Re: - gans@作成者

2018/07/01 (Sun) 14:17:05

明治45年春の番付発表時の新聞記事、
立汐は巡業先にて八甲山を負傷させしため破門されたるが、詫びが叶いて二日目より登場す、とあります。
暴行事件を起こさなければ当然に入幕していたはずですが、翌場所の番付に名前が無いのはやはり
場所前に調整したのだろうと思います。

Re: gans@作成者

2018/07/14 (Sat) 16:01:42

星取表の修正をいたしました(・ω・)ノ
貴重な情報の数々を頂き、皆様ありがとうございます。

文化15年2月場所 - しろしたかれい URL

2018/07/09 (Mon) 13:44:59

東前4諭鶴羽の三日目と東二2秋津野の五日目の対戦相手の大碇ですが、
相撲博物館に問い合わせたところ所蔵の勝負早見には大碇ではなく西二7鯱ノ海とあるとのことで鯱ノ海は1勝6敗1分が正しいようです。
当場所の相撲起顕の勝負付は誤りが非常に多く五日目中入り前の取組が抜けたりしていますが
本来いないはずの力士まで出てきては困りますね。

Re: gans@作成者

2018/07/12 (Thu) 21:43:04

相撲起顕にも、間違いの目立つ場所とかあるんですね~
教えて頂きありがとうございます!
週末にまとめて修正したいと思います(・ω・)ノ

明治45年1月場所十両 - 田口茂

2018/06/24 (Sun) 09:50:10

この場所について興味が湧いてきたので、少し調べてみました。

明治45年1月から十両の枚数が10枚から15枚に。つまり従来の20人から、一挙に30人に。
この場所の十両昇進者は12人で次の通り。陥落者は千葉ケ 嶽。引退が尼ケ崎。

東3枚目 敷島
先場所の地位 東幕下8 この場所の成績 1勝5敗。家賃が高かったのか翌場所1勝4敗。2場所で陥落している。しばらく低迷したが、大正5年5月に入幕を果たしている。
なお、44年6月幕下の下位の方に同名の敷島伊予二の名がある。十両に上がったのは敷島猪乃助。敷島という四股名は最近でもお馴染み。幕内期間平成6〜13年最高位前頭筆頭。
横綱貴乃花に初顔から2連勝したことで記憶に残っている。

西5枚目 苅藻川 (かるもがわ)
先場所の地位 西幕下11 この場所2勝2敗1預り。5日目幕下筆頭の荒角と対戦。後に大正3年1月入幕。

東6枚目 藤渡
先場所の地位 西幕下12 この場所1勝4敗。千秋楽に幕下3枚目の四賀ノ峰と対戦。苅藻川のときもそうだが、何でこの地位で幕下と対戦させるのか。
「1場所限りの十両」該当者。

東7枚目 能登ケ嶽
先場所の地位 東幕下15 この場所1勝4敗。5番中何と幕下と3番取っている。

西7枚目 海山
先場所の地位 東幕下 17 この場所1勝4休。

東8枚目 加勝山(かしょうざん)
先場所の地位 西幕下2 この場所2勝2敗1引き分け。
幕下と2番対戦。後に大正3年1月入幕。

西9枚目 大碇
先場所の地位 東幕下28枚目 5勝0敗で幕下優勝。この場所2勝3敗。5日目番付外の絹ノ里と対戦。

東10枚目 二つ引
先場所の地位 西幕下25 この場所3勝2敗。幕下と1番対戦。

東12枚目 小倉山
先場所の地位 東幕下7 この場所 2勝3敗1引き分け

東13枚目 蛇の目改め殿り。
先場所の地位 西幕下34枚目からの大抜擢。この場所3勝1敗1引き分け。幕下と2番。5日目の相手出羽ノ里は何と西幕下15枚目。

西14枚目 玉ケ崎
先場所の地位 東幕下12 この場所2勝3敗。幕下と1番。

西15枚目 江戸桜
先場所の地位 東幕下35枚目からの大抜擢。この場所2勝3敗1預かり。幕下と2番。「1場所限りの十両」該当者。

他に付け出された立汐は、この場所4勝1引き分けで、翌場所一気に幕内に昇進している。

この場所、十両ー幕下の対戦がひんぱんに組まれている。
解せないのは幕下との対戦範囲。何と幕下21枚目の明石潟が、8日目に西十両13枚目の浦ノ浜と当てられている。いったい取り組み編成はどうなってんの?と言いたくなります。
この場所から十両の人数が増え30人。しかも6日間しか相撲をとらない。十両ー幕下の取り組みなんて組む必要はないだろう。入れ替え戦的な意味合いなら話は別だが、あまりにも多すぎる。
又この時代、幕内以上は東西制。同方は合わないが、十両以下は同方でも合う。
この時代の取り組み編成は、さっぱりわかりません。






根拠は…? 相撲史研究者・田中健

2017/10/25 (Wed) 08:56:17

 天保六(1835)年春場所、元大関緋縅が
「張出」(関脇格)となっていますが、相撲
博物館や西尾市岩瀬文庫に所蔵されている
番附には何れも西方欄外に緋縅の名はあり
ません。
 “改訂”版番附が発行されたとする根拠を
お教えください。

Re: - gans@作成者

2017/10/26 (Thu) 21:36:36

参考資料は「大相撲人物大事典」(2001年BBM社)です。
番付資料p.546 張出に緋縅とあり、注釈として
「緋縅は西関脇格。緋縅欠の番付もある」とのことです。
実際の番付は確認しておりません。

Re: 根拠は…? 相撲史研究者・田中健

2017/10/29 (Sun) 08:43:03

 昭和30初の吉葉山、同春の鏡里を「横綱大関」
とミスした『大相撲人物大事典』を100%信頼
できるでしょうか…。全番附を確認された〔?〕
HP相撲評論家之頁にも「緋縅西関脇格番附外出
場」とあります。それに『相撲起顯』の番附も
緋縅が欄外に載っていません。

Re: - gans@作成者

2017/12/25 (Mon) 02:04:44

そういう番付もあると書かれている以上は無視もできず、
存在しないことの証明というのは大変難しいと思いますが
何とも判断しにくいので、これについては保留とさせて下さい。

Re: 根拠は…? - しろしたかれい

2018/06/04 (Mon) 19:05:19

現在発売中の大相撲中継夏場所決算号の104ページに緋縅が張り出しの天保6年正月の番付が載ってます。

Re: - gans@作成者

2018/06/13 (Wed) 01:22:56

あったんですね!緋縅の載っている番付が。
良かったです。教えて頂いてありがとうございます。

いいですね、このHP - やました URL

2018/01/27 (Sat) 16:23:13

相撲の歴史など伝わってきます。ツイートしました。

Re: - gans@作成者

2018/01/30 (Tue) 00:29:42

ありがとうございます(・ω・)ノ
今後ともどうぞよろしくお願いします。

文化十年冬場所 - しろしたかれい URL

2017/10/21 (Sat) 21:54:48

当場所西幕下5の楯川は日本相撲史上巻では全休となっていますが三段目5格で出場しています。

初や
二や
三●八ツケ森(三段目20)
四●若ノ浦(三段目13)
五○岩ケ根(三段目21)
六○小野ケ濱(西三段目13)
七や
八○雲竜(三段目16)
九○浪川(三段目18)
十○矢車(三段目15)

別人かと思いましたが、翌文化十一年春も西幕下4で

初や
二×関山(幕下11)
三●甲(幕下22)
四○鳴尾潟(幕下20)
五○富士ケ嶽(三段目1)
六○鯱(三段目2)
七○陣立(三段目5)
八○刺杈(三段目6)
九○大鳥毛(幕下24)
十○鉾ケ崎(幕下15)

という対戦相手なので本人でしょう。
江戸時代相撲名鑑によると明石藩相撲頭取立川の子とのことで配慮があったものと思われます。

Re: - gans@作成者

2017/10/27 (Fri) 00:48:56

教えて頂き、ありがとうございます(・ω・)ノ
こちらの星取表にも反映させて頂きました。
見事に対戦相手が下位ばかり・・いや成績が認められて
翌場所は少し強い相手になっているのか・・(;・ω・)
たまにこういうのありますけど、親の七光のような
パターンもあるんですね。

Re: 文化十年冬場所 - しろしたかれい URL

2017/11/03 (Fri) 18:28:43

もう一件、当場所東前8雲早山と西二10高根山は共に八日目休みとなっていますが起顕には八日目中入後三番目に取組の記載があり雲早山勝ちとなっています。
ただ取組順が異様なため相撲博物館に他資料との照合をお願いしたところ、博物館所蔵の勝負早見は二種あり一種には記載がないものの一種には八日目に雲早山が高根山に勝った記載があるとのことです。
雲早山-高根山はあった可能性が高いと思われます。

Re: - gans@作成者

2017/12/25 (Mon) 02:14:41

いつも返信が遅くて大変失礼しております。
相撲博物館の資料に合わせ、こちらの星取にも追加しました。
順番が変というのは・・・出番が遅すぎるということでしょうか?

Re: Re: - しろしたかれい URL

2017/12/25 (Mon) 14:33:11

当時は序ノ口から大関まで取ったあと中入りになり、中入後序二段か三段目から取って結びという取組順でした。上記雲早山ー高根山は序二段の取組の間にぽつんと幕内の取組が出現した形となっているので異様な形なのです。

Re: - gans@作成者

2017/12/26 (Tue) 20:21:07

そうなんですか。
早すぎたのか、それとも中入り前に取るはずが後回しになったのか・・
いずれにしてもミステリーですね(;・ω・)

文化11年11月場所 - しろしたかれい URL

2017/12/11 (Mon) 23:08:56

上記場所は日本相撲史上巻、新古今大相撲事典、大相撲人物大事典いずれも西前頭3を高砂、西前頭4を龍門としていますが、相撲起顕では西前頭3龍門、西前頭4高砂となっています。
相撲博物館に確認をお願いしたところ同館所蔵の番付は相撲起顕と同様とのことでした。
江戸時代のことですので高砂龍門の順の番付も発行されたのかも知れませんが、現物に当たらず古い文献を孫引きしてきた可能性も否定できませんね。

Re: - gans@作成者

2017/12/25 (Mon) 02:12:11

いつも遅くてすみません。
単純に順番の書き写し間違いという可能性もあるということですね。
現在確認できる番付の順番に合わせ、直しました。
教えて頂き、ありがとうございます。

誤謬を発見 相撲史研究者・田中 健

2017/06/15 (Thu) 08:33:50

 文化11年春、下段に廃業:滝ノ鯉…とありますが、
当場所、番附外で出場し、関脇白川や、玉垣・桟シ・
荒馬ら幕内数人と対戦しています。
 尚、私見・愚考では、滝ノ鯉は幕下4枚目格です。

Re: - gans@作成者

2017/06/21 (Wed) 19:54:10

確かに上位と対戦しており、番付外で載せるべきところ
ですね。全日の星取が分かれば、追記したいと思います。

Re: 誤謬を発見 - しろしたかれい URL

2017/06/21 (Wed) 23:15:48

文化11年春の滝ノ鯉の星です。

初 や
二 ●西前6宮城野
三 ○西関脇白川
四 ●西前3桟シ
五 ●西前4荒馬
六 ○西前5三国山
七 ム西二3鬼神
八 ●西前1玉垣
九 ●西前7荒灘
十 や

七日目鬼神戦は東二2鋸り-西二12松嶋の直後に取ってますね。鋸りより上位なのかどうか。

Re: - gans@作成者

2017/07/08 (Sat) 21:10:16

お二人ともありがとうございます。
二段目番付外として星取表に追加しました。
具体的に格は分からないので、とりあえず十枚目の
下の位置です。三役とも当たっているので、筆頭の上でも
良いような感じですが、そこまで上位ではなさそうとの
事ですので・・

Re: 誤謬を発見 - しろしたかれい URL

2017/10/28 (Sat) 21:14:33

同場所東番付外で出場の押分ですが、以下のように対戦相手が全て二段目3以上なので追加してもいいのかも知れません。当場所のみの出場で詳細不明の力士ですが。

初や
二や
三●鬼神(二3)
四●松ケ崎(二2)
五や
六や
七●荒灘(前7)
八●戸田川(前9)
九●宮城野(前6)
十や

Re: - gans@作成者

2017/12/25 (Mon) 02:03:09

しろした様、ありがとうございます。
いつもいつも返信が遅く、大変失礼しております。
押分の星取を、滝ノ鯉の下に追加しました。

安永2年冬場所の二段目最下位 - やまびこ勘太郎

2017/09/19 (Tue) 20:23:55

安永2年冬場所の二段目は、酒井『日本相撲史』でも9枚目までしか記載がありませんが、番付を見てみると、東西とも10枚目まであり、東10枚目が甲山力蔵、西10枚目は里見山丈右衛門です。
このほど、両者の成績を相撲博物館に照会し、回答を得ました。なお、私が見た番付は、以前の本場所パンフレットに当時の番付が印刷されていたもののコピーです。

東10枚目 甲山力蔵
1○柏戸
2●不二越
3○伊予嶽
4●君ヶ濱
5や
6●久米川
7○荒獅子
8や
以上3勝3敗

西10枚目 里見山丈右衛門
3日目 ●雲井川
あとは全部休み
以上0勝1敗

Re: - gans@作成者

2017/09/25 (Mon) 01:30:06

やまびこ勘太郎様、教えて頂きありがとうございます。
こちらの星取表にも反映させて頂きました。
パンフレットに連載されていた江戸の番付、貴重ですよね~単行本化してもらいたいです(笑)

昭和以降 - 田口茂

2017/09/09 (Sat) 10:42:02

 秋場所、白鵬、稀勢の里、鶴竜の3横綱が初日から休場。これについてNHKニュースは「記録に残る昭和以降では初めて」とアナウンスした。
 大相撲の記録は1757年の宝暦時代から、星取り表と勝負づけが現存している。
 NHKは、宝暦時代から相撲の記録が残っていることを知らないのだろうか。マスコミも「昭和以降初」と横並び。
 協会からマスコミに対し、相撲の各種記録は「昭和以降」にするというお達しがあったのかは不明。
 白鵬が前場所、通算最多勝を更新したとき、「昭和以降初」と書いたマスコミはない。
 以前、白鵬が北の湖のもつ50場所連続勝ち越しを更新したとき、マスコミは「昭和以降初」と書き立てた。
 (それ以前にそんな力士いるわけはない)
 結局はマスコミは「協会発表」にそって書いているだけのようだ。
 大正時代に4横綱というのは3場所あるが、3横綱が初日から休場した例はない。従って今回の3横綱の初日からの休場は「史上初」ということです。

Re: 昭和以降 - 田口茂

2017/09/18 (Mon) 10:35:32

 マスコミは、琴奨菊の幕内76場所目の初金星を「昭和以降」と書き立て、横綱大関が5人休場したのは大正7年夏以来99年ぶりと書き立てた。「昭和以前は記録がない」といってるのに関わらず(NHK)
 さて阿武咲が新入幕以来3場所連続二桁勝利をあげたとき、マスコミは何というのだろうか。
 新入幕以来2場所連続二桁勝利は、15日間制が確立した昭和24年以来阿武咲が7人目。
 新入幕以来3場所連続二桁勝利は、戦前の照国のみである。昭和14年夏から19年春まで。10場所連続。

Re: - gans@作成者

2017/09/25 (Mon) 01:22:57

記録をどこから見るのかは曖昧ですね。
種類に応じて、使い分けているように見えます。
勢vs輝の一文字対決があったとき天保以来と書かれたりもしましたので、記録があることを知らないというよりは、調査が難しい又は比較が難しい場合に、適当に区切りを設けているのかなと思います。
大正以前に琴奨菊を上回るスロー金星の記録など無いのは明白ですが、調査した結果ではないから断言したくないのかも知れません。現在の金星の定義を過去いつまで遡って当てはめて良いのかも難しいです。

Re: - gans@作成者

2017/09/25 (Mon) 01:26:27

阿武咲が新入幕から3場所連続二桁勝利に到達し、NHK中継では15日制が定着して以降では初、と言っていました。昭和24年以降ということでしょう。照國は?とも思いましたが、年2場所の時代に3場所目というと新入幕から丸1年たっており、若い力士の成長度合には時間という要素が大きいことを考えると、現代と単純に比較できません。
それでも記録は記録なので、少しくらい言及があっても良さそうなものですが・・


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